究極の果て

「・・・永山さん・・・、どうかなさったんですか?」

 その日、仕事で近くに来ていたから。と退社時間に合わせて稜を迎えに来たのは、永山と三枝だった。

 車のハンドルを握っているのは、永山であった。

 永山ほどの地位にいる者がこうして車の運転をするのは珍しいらしいのだが、自他共に認める車好きだという永山は、駿河会の幹部と直参最大組織の組長を兼任していた頃から運転は他の者に任せず、どこに行くにも自らハンドルを握っていたらしい。

 いつも稜を迎えにくる皆川は元カーレーサーだったというだけあってその運転技術は高かったが、永山のそれも相当なものであった。

 だが、しかし。

 その日の永山は、最初からどこかおかしかった。

 まず、いつもの笑顔と軽口が全くない。
 次にいつもならどんなに混雑している道であっても、周りの隙を伺ってすいすいと車を進めて行くのに、今日はそれがまるでスムーズでない。
 行こうとする方向が全てちぐはぐで、行きかけても他の車に先を越されたり、進めるのに進まなかったり ―― とにかく色々とおかしかった。

 稜自身あまり車の運転が得意な方ではなく、人のことを言えた義理ではないから。と最初は黙っていたのだが、その稜が思わず冒頭の問いかけを投げかけてしまうほど、本当に永山の様子は変だったのだ。

 助手席に座っていた三枝が、稜のその言葉を聞いて微かに笑うのが分かった。
 それを聞いた永山は鋭く舌打ちをし、人差し指と中指の爪でハンドルを叩く。

「・・・本当に、どうしたんですか?」
 と、再び、稜が訊いた。
「気が気じゃないんですよ、明日のことを考えると」
 と、永山の代わりに三枝が答えた。

「・・・明日?なんなんです?」
 と、稜が首を傾げ、三枝はちらりと後ろを振り返って稜を見てから、永山に意味深長な視線を送る。

 三枝の視線を横顔で受けた永山はそこで再び舌打ちをし ―― 前を走っていたマツダ・ロードスターを抜き去ったところで長いため息をついた。
 益々意味が分からずに柳眉を寄せる稜を、再び後ろを振り返った三枝がどことなく笑いを含んだ表情で見て、
「明日、娘さんがボーイ・フレンドを連れて家に挨拶に来るそうなんですよ」
 と、説明した。
「・・・永山さん、娘さんがいらしたんですか。知らなかったな」
 と、稜は言った。
「そうでしょうね。
 豪さんのご家族は一応堅気ですから、みんな表立っては口にしないのです」
「なるほど・・・、それで、娘さんはおいくつなんですか?」
「二十歳でしたよね、確か?」
 と、三枝が永山に訊ね、永山はむっつりと黙ったまま頷く。

 二十歳、と口の中で呟いてみてから、稜は少し笑った。

「二十歳なら、彼氏がいてもおかしくはないでしょう」
「確かに、一般論的にはそうでしょうね。
 しかしその相手は豪さんが極道だと知っていて、その上で会いに来るらしいんですよ」

 そう説明する三枝は、何故か酷く生き生きとしていて、楽しげだった。
 永山は無言でハンドルを握っていたが、苦虫を口いっぱいに押し込まれたような顔をしており ―― それを見た稜は、沸き上がる笑みを噛み殺すのに酷く苦労する。

 それから少し、沈黙があった。
 稜も三枝も何も言わず、永山も黙り込んだまま車を品川方面へと向かわせていた。

 沈黙を破ったのは、赤信号で荒々しくギア・チェンジして車を停めた、永山だった。

「 ―― お嬢さんをください。なんて言われたら」
 ギア・チェンジしたのと同様の荒々しい言い方で、永山が言う。
「俺は絶対にグレてやる」

 むろん冗談だと稜は思ったが、そう言い放った永山は至極真面目な顔をしていた。

 ヤクザがグレるって・・・どうなるんだ、それ?と稜は唖然として思い、三枝はただただニヤニヤと笑っていた。

 そんな三枝を忌々しそうな目で睨みやった永山が、
「そうやって人事だと思って笑っていりゃあいい。でも明日は我が身だぞ、覚悟しとけよ、お前も」
 と、言った。
 そして、“三枝さんにも娘がいるのか”と考えていた稜をちらりと振り返って見る。

「そう、こいつにも溺愛している娘がいるんだよ、恋人の忘れ形見で、血は繋がっていないがな」
「・・・はぁ・・・、そうなんですか」、と稜は言った。
「若菜さんは私と結婚すると言っていますから」、と三枝は言った。
「お前なぁ、高校生のそんな言葉を真に受けんな」、と永山は言った。

「もちろん、それは承知していますよ。
 しかし私は若菜さんに恋人が出来ようとも、それが挨拶に来ようとも、豪さんのように取り乱したりはしません」
 きっぱりと、三枝は言った。
「どうだかなぁ、さぞかしなぁ」
 からかうように、永山が言った。

「当然ではありませんか。私の眼鏡に適わないような男は、若菜さんと個人的つき合いをする以前に、指一本、言葉ひとつ、かけさせませんからね。
 レヴェルに満たない男が出て来る気配があろうものなら、私が徹底的に排除します」
「・・・しかし、お前が知らないところで会う可能性だってあるだろうがよ」

 呆れ顔で言った永山を、三枝はどこか嘲笑を含んだような、しかし鋭く冷えた視線で見る。

 そして一言、
「見逃しはしませんよ」
 と、静かに言った。

 先ほどのものとは質の違う沈黙が、車内を満たす。
 その沈黙は車が品川に到着するまで、少しも揺らぐことなく続いた。

 車が品川のマンションに到着したところでちょうど帰って来ていた俊輔の姿を見た稜は、心底ほっとする。
 永久に続くかと思われるような沈黙の呪縛を掛け合う2人に部屋まで送られたら、俊輔と暮らす部屋にまで呪縛の気配が浸食して来そうな気がしていたのだ。

「・・・おい、どこへ行く」

 結婚するといったらグレる極道を父親に持つこと。
 魔手のような手でひっそりと ―― 三枝のことだ、娘に勘付かれるような下手な真似はするまい ―― その交友関係までをも事細かに把握・監視する父親を持つこと。

 どちらがより大変で、より厄介なのだろう?とぐるぐる考えていた稜の腕を、俊輔が強く掴んで引いた。

 考え込むあまり、思わずマンションの部屋をそのまま通り過ぎそうになっていたのだ。

「あ、ごめん」、と稜は言った。
「どうした、何かあったのか」、と稜を先に部屋に入れながら、俊輔が言った。

 促されるまま部屋に入りながら、稜は車の中で見聞きしたことをざっと俊輔に話して聞かせ、最後に、
「で、どっちがより大変かって考えていたんだけど・・・、これはもう、究極の選択、ってやつだよな。答えなんか出せそうにない」
 と、言った。

 稜の話を黙って聞いていた俊輔が、そこで笑う。
 そして言う、「そんなことはない」

「・・・どうして?どっちもどっちで大変そうだけど」
 首を傾げて、稜は言った。
「まぁ、それを否定はしないが、もっと大変な奴がいる。俺の目の前に」
 腕を組んで稜を見下ろし、俊輔は言った。

 言われている意味がまるで分からずに稜は更に首を傾げ、そんな稜を面白そうに見下ろして、俊輔は続ける。

「あいつらの娘は、それぞれの親だけを相手にしていればいいんだろう。
 だがお前はその両方 ―― いや、永山と三枝だけじゃない、この俺や他の幹部も、お前の一挙手一投足に注意を払っている。
 何を賭けてもいいが、俺が訊けばお前がこの一週間、昼に何を食ったかのリストすら出てくるだろう」

 当然のように俊輔は言い、稜は半分口を開けたような状態で立ち尽くす。
 俊輔は笑いながら上半身を屈めて軽く稜の唇を奪い、その場に稜を残してリビングに入って行った。

 その後ろ姿を呆然と見送った稜は ―― 究極の選択の、その果てを見た気がして、軽いめまいを覚えたのだった・・・。

―――― NIGHT TRIPPER番外編 究極の果て END.