月に哭く

20 : 神の気配

「 ―― いや・・・、そういう意味で言ったのでは・・・」

 と、ルドラは少し慌てたように言った。

 ディアウスはそんなルドラをちらりと見て、頷く。

「こういう事は、言わないようにしているんです、普段は。自分が何を言うべきで、何を言ってはいけないか、自分が言ったことに相手がどう答えて、それに又自分がどう答えるか ―― 常にそうして先々の事を考えながら人と話していて。
 私だけじゃなく預知者は皆、多かれ少なかれそういう部分があると思います。そんな風にして話す人間の事を、他人が信用する訳がないんですよね。
 ですから私は、マルト神群の方々が私達を快く思わない気持ちが分からなくもないんです ―― もちろんだからと言ってそのやり方を肯定するつもりはありませんし、許容できるものでもありませんが・・・しかしそれすら、アスラ神群の所業に比べれば人間味があるのかもしれない」
「アスラ神群の所業に比べれば ―― だと・・・?」
 と、厳しい表情になってディアウスを見て、ルドラは言った。
「まさかお前・・・、知っているのか?」
「・・・色々な文献を読んで、予想していただけなのですが ―― そうなんですね、やはり」
 と、言ってディアウスは小さく肩を竦めた。
「アスラ神群関係の文献に、ヴリトラ神がヴリトラ神妃に貢物として贈っていた ―― 過去形で言っていいものかは分かりませんが ―― 生贄の記述が出てくるでしょう。
 あれをよく読むと捕らえた預知者をいけにえとして貢いでいるのではないかと取れる記述が多く見受けられるんですよね。
 ですから私はアスラ神群はマルト神群よりも私達にとって危険な集団ではないかと、常々思っていたんです。誰にも ―― 言いませんでしたけれど」
「・・・何故?」
「アーディティアにとって・・・もっと突き詰めて言えば私達天地両神一族にとって、敵はとにかくマルト神群だという事になっていたからです。マルトよりもアスラの方が危険だと思うなんて、そんな事を天神である私が言う訳にはいかなかった。
 それに言ったとしても、誰もまともに取り合おうとはしなかったでしょうしね」
「・・・アーディティアは内包する一族や神々同士の結束が固いのかと思っていたが・・・どこも色々あるという事だな」
「預知者の事は・・・特に私の事は皆、大事にはしてくれましたよ。預知の能力が高かったですし、身体も弱かったですから。
 でも大事にされる事と、呼吸がし易いという事は全く別の話なんですね。こんなのただのわがままなのだろうと、昔は思っていましたが・・・、ここに来て、私は知ったんです。それは、つまり」

 と、言ってディアウスはぷつりと言葉を切った。
 唐突に訪れた沈黙はまるで、見えざる手が鋭利な刃物を振り下ろし、ディアウスの言葉を途中で切り落としてしまったかのようだった。

「・・・どんなに大事にされていても、夜寝る前に色々な事に思いを巡らし、そして目を閉じる時はひとりだ ―― という事か」
 静かに、ルドラが切り取られた言葉の後を継ぐように呟く。
 ディアウスはルドラを見て、
「そうではありませんか?」
 と、笑う。
「違いない、実に」
 と、ルドラも頷いて顔を伏せ、笑った。

「それとルドラ王、これは忘れないで戴きたいのですが」
 初めて見る、ルドラの口元に浮かぶ皮肉っぽさを孕んでいない笑みを見ながら、ディアウスは言った。
「・・・ん?」
「私はあなたにここに連れてこられて良かったと ―― ここに来て、色々な事を見聞きすることが出来て良かったと思っている事を、今後なにがあっても、決して忘れないで下さい」
「・・・妙な言い方だな。大丈夫、俺は・・・」
「いいから、黙って聞いて下さい」
 椀を持つルドラの腕に手をかけて、ディアウスは言った。

 ディアウスの肩にかけられていたマントが微かな音をたてて床に滑り落ち、煌く大地色の髪がさらりと床を覆う。
 それに構わずに、ディアウスは続ける。

「この私の身が、今まで以上の危険に晒されるであろう事が分かるんです。明日かもしれない、数日後かもしれない、あるいは何十日も後かもしれない ―― それは分かりませんが、でもきっと、そう遠い将来じゃない。その時が来て、私の身に何があっても、私は決してあなたを恨みはしない。
 アーディティア神群にも、きちんと話をすれば過去に囚われずに未来を見ることの出来る神が、多くはないかもしれませんが確実にいます。そしてその上、あなたには過去に目を向けて生きている人達をも未来へ引きずり出す力があるように思うのです。
 時間はかかるかもしれませんが、あなたを措(お)いて、アーディティアとマルトの混沌を正す事が出来る“ルドラ王”はいない」

 ルドラの腕にかけたディアウスの指に、徐々に力が篭ってゆく。
 ルドラは自分を強く見つめるディアウスの蒼い瞳を、憑かれたように見返していた。

 それは、預知者の瞳であった ―― 昔、一度見たことがある、預知が降りている瞬間の預知者の瞳。
 神がその唇を介して人々にその真意を告げる瞬間の、掴み取れそうな程の濃密な空気。

 かつて遠い昔、“彼女”の目の中に見たほど強い気配はなかったが、ディアウスの双眸には明らかに、見間違いようのない神の気配があった。

「アスラはもう無理でしょう、残念ながら。あの人達の精神は禍々しい呪いの力に完全に染め抜かれてしまっている。でも、ルドラ王、あなたが率いるマルト神群と私達は、まだ歩み寄れる余地があるのです ―― あなたがいれば。
 ですから、たとえ何があっても、あなたにはこの時代を生き抜いていただかなくてはならないのです。もし私がここで儚くなっても、いいですか、決してその事で必要以上に後悔したり、自分を責めたりはしないで下さい。それだけは、覚えておかれますように・・・ルドラ王」

 そう言ったディアウスの瞳の色が、ゆっくりと落ち着いて行くのを見届けてから、ルドラ王は無理やり軽快な調子で口を開く。

「しかし、お前が死んだら無垢の女神が黙ってはいまい。お前をここに連れてきた時、俺に向かって啖呵を切った彼女の目は、実に見事なものだった。あの女神の精神は殆ど戦神(いくさがみ)のそれだな」
「そうですね、アディティーは元々、戦神(いくさがみ)の神名(しんめい)を手にしたいと考えて修行していた方ですし」

 あの瞬間 ―― アーディティア神殿を連れ出された瞬間から経過した月日に思いを馳せながら、ディアウスは答える。

「でも、今言った私の言葉を伝えれば大丈夫ですよ。今の言葉が天神である私の言葉であるか、そうでないかぐらいは分かりますから、彼女には」
「・・・冗談じゃない。俺は伝令をしている訳ではないのだ。大体長すぎてそんな預知など、いちいち覚えていられるものか。伝えたければ自分で伝えてくれ」
「勿論、そう出来ればそうします。私も特に死に急ぐつもりはありません」
 と、言ってディアウスは笑い、ルドラの腕にかけていた手を引っ込めようとした。
 その手をルドラが、強く掴む。

「死なせない。死なせたりしない。もう二度と、同じ過ちを繰り返しはしない・・・」

 身を切るように真剣な声で、ルドラは囁いた。