55 : 輪廻の際で
あっと言う間に晴れ渡ってゆく天(そら)に視線を走らせ、そこに神馬の姿が見えないのを確認してから、ヤマは荒げていた声を抑えて続ける。
「インドラ、お前が過去2代の“ルドラ王”のやり方を快く思っていなかったのを、俺は知っている」
「何だって、そんな・・・ ―― 」
「今はもう、建前を振りかざしている時ではないだろう、インドラ」
反論しようとしたインドラの言葉を、ヤマはきっぱりと遮る。
「確かにお前は天地両神一族の持つ預知能力を忌み嫌ってはいた。しかしあの王達のやり様は余りに残酷すぎ、見るに耐えないとも思っていただろう?
それを知っていたからこそ俺は、捕らえられた預知者を引き連れて龍宮殿を出奔する直前、一緒に行かないかと声をかけたんだ ―― お前はそれを断ったが、先代のルドラ王に俺の裏切りを報告する事もしなかった。
俺にかけられた追捕の手を巧みに逸らしてくれたのがお前以外にいない事も、分かっていた」
ヤマは再び天(そら)を確認してから、インドラを真っ直ぐに見やる。
「ヴリトラが倒れ、アスラ神群が消滅したこの後、世界は今までとは全く違うものとなるに違いない ―― そしてそこで我々は、互いの間にある溝を埋めてゆかなくてはならない。お互いに少しずつでも、歩み寄る努力をし始めなくてはならないのだ。
そんな今だからこそ、そのルドラ王にしてもらわなくてはならない事がある ―― いや、そのルドラ王にしか出来ない事があると、俺は思う。お前も同じように考えているからこそ、掟に従い、立てなくなった“ルドラ王”を殺してその力を輪廻の輪に戻す事を躊躇っているのだろう?
ならばインドラ、そこにいる“ルドラ王”を助ける方法はひとつしかない」
「・・・その・・・方法、とは・・・?」
「アーディティア神殿にルドラ王を連れて行く」、とヤマが答える。
「それは駄目だ ―― 駄目だ、駄目だ、駄目だ!!」
激しく頭(かぶり)を振って、インドラは言う。
「天地両神一族が実権を握るアーディティアにこんな状態の王を預けるなど・・・出来る訳がない!あいつらがどれだけルドラ王を憎んでいるか・・・あそこで辛酸を舐めたであろうお前が、知らない筈はないだろう!」
「だがその傷は天地両神一族にしか治せない!」
ヤマは力なくかかげられた刀を素手で横に払いながら、ルドラを挟んでインドラと向かいあった。
「早くしないと助かるものも助からない。
俺は龍宮殿でルドラ王とディアウスの間に何が起こっていたのかは知らない。今は想像による予測を語っている暇もない。しかしインドラ、これだけは誓える。天地両神一族を束ねる天神は過去の歴史がどうあろうと、世界を救い、こんな風に傷ついている者を不当に扱える神ではない。アーディティアを統べる無垢の女神も同様だし ―― 俺も微力ながら、力の限りルドラ王を守ろう。賛同してくれる戦神(いくさがみ)も、今となっては少なくないと・・・ ―― 」
そこまで言ったヤマが、はっとして口をつぐんだ。
うつ向いていたインドラも、ぎくりとして顔を上げる。
遠くで、人の声がしたのだ。
ヤマは強くインドラの肩を掴む。
「時間がない、インドラ!お前の神馬を俺に貸せ」
「しかし・・・ ―― 」
「“迷った時は少しでも可能性の高い方を見極めて、そっちに賭ける” ―― お前の口癖だったろう!
ここにルドラ王を留める事は確実にルドラ王の死を意味するんだぞ!」
反論の余地はないように思われたが、インドラは尚も迷いながらルドラの顔を見下ろす。
その顔は先程より数段白さを増しているような気がした。
「インドラ!!お前の神馬はどこだ!?」
迷い続けるインドラの決断を待っていられない、とばかりにヤマが尋ねる。
インドラはヤマを見上げ、再びルドラを見てから意を決した様に顔を上げた。
それと同時に、すぐそばの茂みから灰色の神馬が飛び出してくる。
ヤマは無言で馬のたてがみを撫でてから、インドラを手伝ってルドラの身体を馬の背に乗せる。
次いで馬の背に跨ろうとしたヤマの手首を、インドラが掴んだ。
痛みを感じる程強い力を込めるインドラを、ヤマは揺るぎない強い意思を滲ませた視線で見据える。
言葉は、なかった。
ただ小さく頷きあった後にインドラはヤマの腕を掴んだ手を離し、ヤマもまた、再びインドラを見る事無く神馬の背に跨る。
弓から放たれた矢の如く天(そら)へと駆け上がった神馬の姿が小指の先ほどの影になった頃、インドラの周りをマルト神群の戦神(いくさがみ)達が取り巻いた。
「英雄神、王はどちらに?」
「・・・あちらに」
問いを投げた戦神(いくさがみ)を見ようともせず、インドラは天(そら)の一点を指差した。
「王は無垢の女神に会うため、単身アーディティア神殿に向かわれた」
「そうか、では、我々もすぐに後を ―― 」
「いや、その必要はない」
きっぱりとインドラは答え、自分の周りを取り囲んでいる戦神(いくさがみ)達を見回した。
「何故だ、単身でアーディティアに向かうなど、危険ではないか、そんな・・・」
「勿論私もそう申し上げた。だが、話し合いの場に我々のような骨の髄まで戦神(いくさがみ)でしかない者は必要ないと、聞き入れていただけなかった。
とにかくアーディティアと並ぶ一神群として城が無いのは格好がつかないので、帰るまでに龍宮殿を再建しておくようにの事だ」
「・・・でも、あそこまで壊されたものを再建するとなると、相当な時間がかかるわよ」
と、アガスティアが眉を寄せて言った。
「まさかそれまで王はアーディティア神殿から戻らないお積りなのか?」
と、羅刹王アグニも信じられない、といった口調で言った。
「さぁ、どうだろうな」
そっけなく答え、インドラは小さく肩を竦める。
「王がどういうお考えでいられるのか、私には分からない。だがとにかく、アーディティア神殿は無傷で残っている今、我々には城がないというのは余りいい形ではないというのは、間違いではないだろうな。
とりあえず皆を被害の少ない青龍殿に集めてくれ。そこを仮の拠点として龍宮殿を再建する段取りを錬ろう」
インドラがまるでこれが当然の流れであるかのように落ち着き払い、次々に戦の後処理や、アーディティア神群の戦神(いくさがみ)達とのやり取りに関する指示を出しているので、マルトの戦神(いくさがみ)達は首を捻ったり、納得がいかないと呟きながらも自らの神馬を駆って青龍殿に向かう。
その場に残った戦神(いくさがみ)からあれこれと問いかけられる言葉に、何気ない振りをして ―― しかし言葉の端々にまで気を配り、不信感を抱かれないよう細心の注意を払いつつ対応をするインドラは、ヤマがルドラを連れて去った方角の天(そら)を、もう見ようとはしなかった。
―――― 「月に哭く」第2章 完
第3章に続く...