月に哭く

54 : 死の掟

 ヴリトラが呻き声を上げながら“崩れて”行き、最後まで残った“第三の目”が虚空に溶けきったのを確認してから、ルドラは自分の脇腹に突き刺さった剣を引き抜いた。
 剣を投げ捨てながら倒れているヴァルナを見たが、彼女の身体を外に運び出す体力は残っていない。
 後ろ髪を引かれるような思いで、ルドラは瘴気に満ちたその広間を後にした。

 何度も倒れそうになりながら、出口を目指す。

 手足が、酷く重かった。
 視界は悪く、口内には濃い血の味がする。

 生暖かいものが肩と脇腹から流れ落ちてゆく感覚だけが鮮明だったが、傷の処置をするより、とにかく早く外に出たかった。

 しかし、どれだけ歩いても光が見えない。
 もう永遠に出口には辿り着けないのではないかと絶望しかかった時 ―― ふいに、空気が変わった。
 じっとりと重かった空気から圧力が去り、息が軽くなる。
 外に出られたと思った刹那、頬に土が触れた。
 殆ど陽が射さない為に土は湿り、生臭い嫌な匂いがしたが、先程まで身体を取り巻いていた空気に比べたら、その匂いすらあたたかく、生に寄り添ったものに感じた。

 立たなければ、とルドラは思う。
 だがもう指先ひとつ、自分では動かせなかった。
 辛うじて動かせる目で、天(そら)を見る。
 この地方の天(そら)を常に覆っている黒い雲がみるみるうちにほぐれ、そこからひび割れた天地を透かして蒼い色が見えた。
 その色は戦いが漸く終わったという安堵と同時に、かの神の瞳の色を思い起こさせた。

 思わずその名を呼びたくなったが、堪える。
 こんな呪われた場所で、そしてこんな血にまみれた状態で、呼んでいい名ではなかった。

 これまでルドラは戦いのなかで大きな怪我をする度、それを周りに知られないよう細心の注意を払い、自ら治療を施し、死から逃れる漠然とした努力を続けていた。
 死など恐れないと、いつ死のうが、どれだけ生きようがどうでもいいと思いながらも、そうやって生き続ける努力をし続けて来たのだ。
 しかしそれは川面に落ちた木の葉が水の流れに逆わず(逆らえず、と言うべきか)に海へと向かうのに似た行為であった。

 だが今、この瞬間、ルドラは心底死にたくないと思っていた。
 ろくに身体も動かせず、もう目を開いているのさえ辛い状況に陥っても尚、死にたくないと、生きていたいと思う。

 出会った頃、ディアウスは言った ―― 私は良いことは殆んど見えないのだと、見えるのは悪いことだけなのだと。

 そうじゃない ―― そうじゃないんだ。

 叫ぶように、喚くように、ルドラは思う。

 ヴリトラの急所を預知し、俺を救ってくれたのはお前であり ―― お前の預知が、世界を救ったのだ。

 それだけはどうしても、彼に伝えたかった。
 それを伝えられたら、その後この身がどうなっても、どうされても、構いはしない。

 だがこのまま自分が死ねば、彼は自分の預知を辛く苦しいばかりの、無意味なものであると思い続けて生きて行く事になる。
 人知れず夜の闇の狭間で涙を流し、孤独の中で自分を責め続け、生きて行く事になるのだ。

 ルドラは全く力の入らない腕を強引に動かして立ち上がろうとしたが、その手指はどんなに力を込めようとしても、弱々しく土をかくだけだった。
 虚しい、しかし必死の努力を続けるルドラの身体が突然引き上げられ、激しく名を呼ばれる。
 力なく上げた視界に英雄神インドラの姿を認めたルドラは、自分の努力が水泡に帰した事を知り、溜息をつく。

「 ―― ルドラ王・・・!」
 と、インドラは言い、鮮血が流れ落ちるままになっているルドラの脇腹を強く押さえる。
「立ってください、我が君・・・!」
「・・・無駄だ、インドラ・・・この傷は到底、隠し通せるものではない・・・」
 と、ルドラは力なく呟く。
「大体もう・・・、立ち上がる事さえ、出来ないのだ・・・どうした、掟だろう・・・俺を、殺せ・・・」
「何を心弱い事を・・・!あなたは立てる、立つ事の出来る王を何故私が殺さなくてはならないのです・・・!
 立つのです、立ってください、王 ―― ルドラ・・・!!」
 インドラは叫んだが、がくりと頭(こうべ)を垂れたルドラは、もう反応を示さない。
 幾度か大声で王の名を呼んだが、ルドラの目が開かれる事は無かった。

 間もなく一族の者達が、単独でヴリトラを倒した王を直接讃えるためにこの場へやってくる ―― そうなったら、ここにいる“ルドラ王”は大戦をギリギリのところで勝利に導いた偉大な王として殺されてしまう。

 他の神群に伝わる『マルト神群は“ルドラ王”を他の何よりも尊ぶ』という通説は、全くの間違いという訳ではない。
 しかしそこには『“ルドラ王”が“ルドラ王”としての力を振るえる間は』という但し書きが付くのだ ―― つまり“使えなくなったルドラ王”は生きていても意味がないというのが、マルト神群と、その中枢を固めるルドラ一族の共通した認識だった。

 他の神群の神々と違い、“ルドラ王”はその血や修行で高めた能力によって後継者を決めるわけではない。
 力を振るえなくなった、使い物にならなくなった“ルドラ王”が死ねば、そう長い時を置かず、金の瞳と髪を持つマルト神群に属する者の中に黒い髪と翠の瞳を持つ者が生まれる。
 それが新しい“ルドラ王”となるのだ。

 王を何よりも尊ぶ一族が、使い物にならなくなった王を躊躇いなく殺す ―― そういう矛盾に満ちた掟が、マルト神群の歴史に綿綿と受け継がれてきたのだ。

 インドラとて、当初はその矛盾に満ちた掟をおかしいと思う事はなかった。しかし・・・ ――――

 ぐったりとした王を腕に抱き、何とかならないかと逡巡しつつ、どうにも出来る訳がないと絶望しかけたインドラの後ろで、物音がした。
 もう一族の者達がやって来たのかと絶望と共に振り向いた、そこにいるのが死者の王ヤマである事を知ったインドラは、すばやく腰の剣を抜く。

「寄るな・・・!」
「落ち着け、英雄神!」
 鋭く突き出された刃から慌てて逃れ、ヤマは叫ぶ。
「近寄るな・・・!アーディティアの戦神(いくさがみ)などに王を殺させはしない・・・!!」
 ヤマの言葉を聞き入れる事無く、インドラは言う。
「去れ、立ち去れ、裏切り者が!」
「そうだ、俺は確かにマルト神群を裏切った者だ、しかし!だからこそ分かる事もある・・・いや、お前だって分かっているはずだ!このままではルドラ王は殺されてしまう、そうだろう!」
 激しい身振りと共にヤマは叫んだ。
 その一寸もずれの無い真実をついた指摘に言葉を失ったインドラは、きつくきつく、唇を噛み締めた。