月に哭く

1 : 命の天秤

 ヴリトラ神の命が潰えた際に生じた振動はルドラ神群の領土を越え、アーディティア神殿にまで伝わってきた。
 アーディティアの領地内では滅多に吹かない強い風 ―― しかも明らかに自然のものではない不気味な雰囲気の風と大地の震えは、どこか不吉なものに感じられ、神殿にいた神々は皆一様に不安な面持ちで暗い空を見上げた。

 ルドラ神群から求められてアーディティアの戦神(いくさがみ)達が戦場に向かった後、戦況を伝える報告は決して明るいものとは言えなかったし、アスラ神群と本格的な戦が始まったとの報告が入ってからは戦場から遠くはなれたアーディティア神群領土の天(そら)にも暗雲が立ち込め、青空が覗く事はなくなっていたのだ。

 アーディティアの神々は天(そら)を覆う低く垂れ込めた暗い雲間から、いつアスラ神群の戦神(いくさがみ)が姿を現すものかと戦々恐々としていたのだったが ―― 1日経っても、2日経っても悪魔共の姿は見えず、天(そら)は徐々に元通り、平和な時代と同様の明るさを取り戻していった。

 もしかして戦況は、自分達にとっていい方向に向かっているのではないか。

 戦場からは何の報告も入っていなかったものの、残された神々が自らの前途に希望の光が瞬くのをはっきりと感じ始めていた時 ―― 黄金色に輝くアーディティア神殿の中庭に、戦の雰囲気を色濃く纏った死者の王ヤマが降り立った。
 無垢の女神アディティーの住まう神殿に程近いその庭に何の前触れもなく降り立ったヤマは、そこに居合わせた神々には目もくれず、アディティーの名を呼びながら、神馬の背からルドラの身体を抱き下ろす。

 その場にいた神々は血と泥にまみれ尽くしたルドラ王を見て悲鳴に近い声をあげ、自分の名が呼ばれるのを聞いて飛んできたアディティーはルドラの側に屈みこむように跪く。
「戦況は・・・?」
 ぴくりとも動かないルドラに“気”を分け与えながら、アディティーは尋ねた。
「ルドラ王が単独でアスラ宮に潜入してヴリトラを討ち果たし、アスラ神群は消滅しました。戦は終わったのです。しかし・・・」
 と、言いながらヤマはルドラの受けた腹部の傷をアディティーに見せる。
 その生々しい傷から立ち上る異臭に周りの神々は一様に顔を背けて口を手で覆い、アディティーはヴリトラの毒によって黒味がかった紫色に変色したルドラの傷口を見て低く呻いた。
「無垢の女神よ・・・、どうか、お願いです・・・!!」
「プリティヴィーを・・・地神を呼んで来なさい! ―― と、アディティーはヤマの懇願の言葉を遮って叫んだ ―― 何をぼおっとしているの、早く ―― 早く!」
 怒鳴るように命じられたアディティーの侍女たちが我に返って踵を返そうする一瞬前に、奇妙に乾いた笑い声が辺りに響き渡る。

「無事のご帰還、おめでたいことね、死者の王。心からのお祝いと、私達がこれまでにしてきたあなた方一族への無礼を詫びましょう。
 ルドラ一族に対する積年の恨みを晴らす絶好の機会を、ヤマ、あなたがもたらしてくれるなんて ―― さあアディティー。そのマルト神群の王を私達に渡してちょうだい。今すぐに」  と、プリティヴィーが言った。
「・・・そう、ルドラ王をあなたに任せたいのよプリティヴィー」
 と、アディティーは言った。
「でもそれは、恨みを晴らすためではないわ。少なくとも今はね」
「私達が抱いてきた恨みを今晴らさずに、いつ晴らせというのですか・・・!」
 と、プリティヴィーの後ろに控えていた木の女神アラーニーが叫んだ。
「我らの命を踏みにじり、蔑ろにし ―― 穢した王がそこにいるのです、何が何でも渡して頂きますわ・・・!!」
 アラーニーの金切り声のような悲鳴を皮切りに、天地両神一族の神々が口々にルドラ王と、その一族に対する恨みの言葉を口にする。

 アディティーと共にその場に駆けつけていた祈祷神ブラフマーナは喧騒の中、
「何をどう言ってみても無駄なこと・・・彼らは決して、ルドラ王の治療などしませんわ」
 と、囁いた。
 ブラフマーナの言葉を聞いて、ヤマは強く唇を噛む。

 ルドラの受けた傷は、天地両神一族にしか治療出来ないとは思った。が、彼らが快く治療を施してくれるだろうなどという甘い望みは、最初から、ひとかけらも抱いてはいなかった。
 それどころか、こうなるだろう事は分かりきっていたのだ。
 あの場にルドラ王を残してきても、同じ事だったかもしれない。
 無用な苦しみを、ルドラ王に与える事になったのかもしれない。
 しかしそうは思ってもあの時は、感じた一縷の望みに全てを託すしかなかった。
 そして今もなお、その望みに縋ってみずにいられないヤマは、転がるような格好でプリティヴィーの前に両手をつき、大地に額をこすり付けんばかりにして言う。

「頼む ―― 頼む、地神プリティヴィーよ・・・!ルドラ王を恨む気持ちは分からぬではない、だが、しかし ―― しかし・・・!!ここにいるルドラ王はこの地を、世界を救った者なのだ!そなた達の命を・・・そなた達が尊ぶ神が生きる世界を救った者なのだ!どうか今だけは恨みを忘れ、彼を一介の怪我人として治療してくれないか!過去の歴史に過ちがあるならば、それはその後、相応の話し合いを・・・!!」
「“相応の話し合い”ですって・・・!?」
 プリティヴィーは言い、地につかれたヤマの右手を激しく踏みにじった。
「ルドラ一族の誰がいつ、私達一族を殺す時に相応の話し合いの機会を持ったと言うの?野犬に生きたままその身を喰らい尽くさせる前に、その預知者と相応の話し合いをしたの?荒野にさらし首にされた一族の者達の一体誰と、ルドラ一族が相応の話し合いをしたというの?
 さあヤマ、答えられるものなら、答えてみなさい!!」
「プリティヴィー、やめて・・・!!」
 踏みつけられたヤマの手から血が滲むのを見て、ブラフマーナが叫んだ。
「私達が舐めた辛酸と、抱え続けてきた恨みはそこにいる王一人を殺しただけで晴れるものではないわ。時代が変わっても、その中で何が起ころうとも、決して ―― やった方は簡単に忘れられても、やられた方はそれを忘れることなど出来ないのよ・・・!!」
「聞いてちょうだい、あなた方・・・ ―― !」

「これは一体、なにごと・・・?」

 天地両神一族の余りの激昂振りを何とか諌めようとしたアディティーの声と重なるように、か細い声がした。
 その声を聞いた天地両神一族の神々が一斉に、信じられないという思いを抱いて声の主を見る。
 慌てて振り返ったプリティヴィーは声を発するより先に、近寄ってこようとするディアウスの元へと駆け寄り、その身体を押し戻すようにした。
「兄さま、まだ起きてはいけないと、あれほど言ったじゃないの・・・!!」
 そこにいた全ての天地両神一族の神々が守る様に周りを取り囲んだ、その中心でディアウスは静かに首を横に振る。
「もう大丈夫。それにそもそも、体調自体はそれほど悪くなかったのだから ―― それで、一体何が?プリティヴィー」
「何でも・・・何でもないのよ、たいした事では・・・」
「たいした事がないのに、あなたは仲間に対してあんな行動を?」
 真面目な顔でそう尋ねられて言葉に詰まったプリティヴィーから視線を外し、ディアウスは近寄ってきたアディティーを見た。
「アディティー、一体何が?」
「ええ、実は・・・」
 と、アディティーが事の次第をざっと説明するのを黙って聞いていたディアウスは最後、強く双眸を閉ざした。
 そして中くらいの間を取ってから、
「・・・この場合は、アディティーやヤマの言う方が正しいと思う」
 と、呟くように言ってプリティヴィーを見た。
 輪の外でうなだれていたヤマは、ディアウスの返答を聞いて弾かれたように顔を上げる。
「マルト神群がこれまでにしてきた事は許せない。恨んでも恨みきれないし、許そうとも思えない・・・それは私も同じこと」
「だったら・・・!」
「でもだからと言って今のこの状況で、そういう理由があって傷ついている存在を問答無用で殺すことが正義だとは思えない。罪を償ったり、過去の歴史を悔い改めたりして貰うのは、治療をしてからでも遅くない」
「そんな・・・でも、私は・・・っ、兄さまがどう言われても、私は絶対に嫌よ。決して治療なんかしないし ―― 薬草だって探すものですか、あんな悪魔のような者の為になど・・・!!」
 強い決意を漲らせた声でプリティヴィーは言い張り、周りを取り囲む天地両神一族もその通り、と言わんばかりに何度も頷く。
 そんな彼らをぐるりと見回したディアウスは、誰も自分の意見に従おうとしない事に気分を害する様子もなく、
「・・・あなた方にはあなた方の考えがあって、無理に私の考えを押し付ける気はもちろんない。ルドラ王の治療はこの私がします」
 と、その辺に散歩に行くとでもいう様な軽い口調で言った。
「だ、駄目よ!!」
「何を言い出すのですか!!」
「いけません、そんな!!」
「とんでもない!!」
 プリティヴィーやアラーニー、そして天地両神の守護神たちがそれぞれが同時に叫んだ。
 ディアウスはしかし、そんな彼らを不思議そうに見て首を傾げる。
「だってあなた方全員がルドラ王の治療をしたくないのであれば、私がやるしかないと思うのだけれど」
「そんな危険な事、許される筈が無いでしょう、兄さま!」
「危険って、何が?相手は瀕死の重傷を負っている怪我人なのに」
 と、言ってルドラ王の方へ歩き出そうとするディアウスを、必死の形相でプリティヴィーが止める。
「駄目だったら、兄さま!ルドラ王なんかに、近寄っては駄目!!」
「駄目と言われても、こんなにも“気”が弱まっているのでは、天地両神一族が治療をしない限り助からない」
「・・・わ、分かったわ ―― 分かったわよ、兄さま・・・。私が治療をするから・・・兄さまはルドラ神群の王なんかに近寄らないで、お願い、お願いよ、兄さま・・・」
「・・・本当にあなたが治療を?」
 ディアウスは表情を改めてプリティヴィーを見て、尋ねる。
「・・・ ―― ええ」
 低い声で、プリティヴィーが答える。
「・・・じゃあ、そうしてもらう」
「そうしたら兄さまは、ルドラ王に近寄らないわね?絶対に、決して、ルドラ王に会わないと、約束して。兄さま」
「分かった。あなたが治療してくれると言うのなら、私がルドラ王と会う必要はないだろうから」
 きっぱりとディアウスは言い ―― そこまで黙ってやり取りを聞いていたアディティーが、堪えきれないといった様子で口を開こうとする。
 その動きを制するように右手をあげてから、ディアウスは真っ直ぐな強い視線で妹を見据えた。
「でも1つだけ言っておきたい事がある、いい、プリティヴィー・・・それに皆も。今後、もしルドラ王の身に万一の事があったら ―― その時は私もルドラ王と一緒に死を選ぶ。これは脅しではない。それを、決して忘れぬように」
「・・・な、何ですって!?」
 激しく顔を歪めて、プリティヴィーが訊き返す。
「そんなに驚かなくても」
 にっこりと微笑んで、ディアウスは答える。
「“気”は弱々しくなっているけれど、ルドラ王の生命力にはまだ力強いものを感じる。あの生命力とあなたの地神としての力があれば、ルドラ王を助けられない筈がない。それは私が ―― いいえ、あなたが一番分かっているはず」
「で、でも・・・突然病状が急変したりする事がないとは言えないし・・・、怪我や病気の治療と言うものに絶対という保証はないのをご存知でしょう?それを兄さまの命と天秤にかけられても、困るわ・・・!」
「それはもちろん、承知している。だから急変なんてしないよう、細心の注意を払って治療にあたって」
「そ、そんな無茶苦茶な!」
 色を失った頬を押さえるプリティヴィーを、冷静な目で見詰めてディアウスは言う。
「一体何をそんなに慌てることがあるのか、本当に分からない、プリティヴィー ―― 一生懸命、力を尽くして治療をして駄目だったものを、私がどうこう言った事は今までに一度だってなかったはず。
 私は万一その死因におかしな点が ―― 例えば何か作為的な点があったりした時に責任をとると言っているだけなのだから、あなたはただいつも通り、私に対してしてくれるように、怪我人を治療すればいい。
 ・・・これでいいでしょう、アディティー・・・そして、ヤマも」
 と、ディアウスに聞かれたアディティーはええ。と答え、ヤマは何も言わず、ディアウスに向かって深く深く、頭を下げた。