2 : 消えない光
つくづく、忌々しくてたまらない。
どうして私が、この私が、こんな事をしなくてはならないのか。
天地両神一族を率いる天神ディアウスの命令により、選りすぐりの薬草や神酒(ソーマ)をふんだんに使い、細心すぎるほどに細心の注意を払ってルドラ王の治療をしつつ、プリティヴィーはそう思わずにはいられなかった。
しかもその“選りすぐりの薬草”とはプリティヴィー本人があちこちの森を捜し回って集めたものであり、ルドラ王の治療に使われている神酒(ソーマ)はディアウスが作ったものであった。
天地両神一族の神々は当初、『天神が作った神酒(ソーマ)をルドラ王などに使うなど、もってのほか』と激しく反対した。
それまで、天の恵み篤いディアウスが作る神酒(ソーマ)は、アーディティア神群に籍を置く戦神(いくさがみ)でも、特に位の高い者にしか施されなかったのだ。
それを他でもない、ルドラ王に湯水の如く使おうというのだから ―― 特に一族の年配の神々がディアウスのこの行動を激しく諌めたのも無理はないかもしれない。
だがディアウスに、
『ルドラ王に最高の治療を施すように、と私は一番最初に言った筈です。そしてそれは我が神群の最高神、無垢の女神アディティーも望んでいらっしゃること。
もし天地両神一族の中で、この私が作る以上の神酒(ソーマ)を作れる人がいるのなら、すぐにその人に神酒(ソーマ)作りを頼む積りです』
などと真剣な顔つきで言われては、それ以上の反論は出来なかった。
しかし誰も納得した訳ではなく、その後もプリティヴィーの耳にそっと、
自然死に見えればいいのなら、ゆっくりと薬の効用を弱めて行って、じわじわと死に追いやってしまえばいい。とか、
毒を持つ虫かなにかを、偶然を装って病室に放ったらどうだ。とか、
いっそ殺してしまい、ディアウス様のお気持ちが落ち着くまで彼が早まった事をしないよう、監視をつければいい ――
などと囁きかける者は後を絶たなかった。
だがむろん、言われるまでもなく、力の限りを尽くして治療している当の相手を殺してやりたいほど憎んでいるのはプリティヴィー本人なのだ。
それなのに、そういったよからぬ提案をしてくる者たちを宥めたり、口に出さないまま即行動に移ろうとする一族の者がいないかと目を光らせ、日々ルドラ王が臥せっている部屋中をくまなく掃除したり、何か異常はないかと点検したりしていると ―― 一体自分は何をしているのだろうかと天を仰ぎたい心境に陥る。
プリティヴィーとて、ディアウスに知られずにルドラ王の息の根を止められる方法がないものだろうか?などと考えてしまうのはしょっちゅうだったが、しかし、そんな事を人知れず成し遂げるのは不可能である事も知っていた。
何故なら無垢の女神アディティーや死者の王ヤマは勿論の事、戦場から帰ってきた暁の女神ウシャス、太陽神スーリヤなどの名立たる神々が ―― 戦神(いくさがみ)はマルト神群との話し合いや、戦の後処理やら何やらで忙しくしていたにも関わらず ―― 入れ代わり立ち代わりルドラ王の病室に顔を出すのだ。
常に数人の天地両神一族以外の者がルドラ王の治療の過程を監視している(そんな積りではないのかもしれないが、そういう意図がない訳でもないのだろうとプリティヴィーは推察していた)状態では、いい案があったところで実行に移すどころの騒ぎではない。
そして何よりもプリティヴィーの復讐の手を縛るのは、兄であるディアウスの脅しのようなあの言葉だった。
あの言葉がはったりであろうと考える者もいたが、プリティヴィーはああいう目をした兄の決心が生半可なものではない事を知っていた。
万一の事があったら、誰が何と言っても、例え永遠に監視をつけたとしても、ちょっとした隙を見てディアウスは躊躇いなく自らの命を断つに違いない ―― プリティヴィーにとって兄のあの言葉は、太陽が東から昇って西に沈むのと同様の強い確信を持って信じずにはいられない予告の言葉だった。
つまり、瀕死のルドラ王を救う事は、愛する兄の命を守る事でもあるのだ。
そう自分に言い聞かせて治療に専念しようとするプリティヴィーだったが、やりきれない・・・というか、やってられないわよ、こんなの。という気持ちは中々消し去れないのだった。
お世辞にも心が篭ったものとは言えないものの、ルドラが施されているのは天地両神一族が有している最高レヴェルの治療ではあった。が、ルドラの意識は杳として戻らなかった。
毒が塗りこめられたヴリトラの刃で突き抉られた数々の傷は、相応の名を冠する戦神(いくさがみ)であっても、その一つを受けただけで命を落としただろうというようなものであったし、それにも増して厄介なのは目に見えない傷だった。
アスラ宮の毒に満ちた空気や、ヴリトラの吐き出す濃い瘴気を長時間吸い続けた事により、ルドラの体内は限界まで傷つけられていたのだ。
彼でなければ、幼い頃からその身を危険に晒し、何度もヴリトラ神やその妃と戦ってきたルドラ王でなければ、この内と外、両側からの傷には持ち堪えられなかったであろう。
だが生きて呼吸をしているのが奇跡だと言っても過言ではない程に弱りきっていても、ルドラ王の奥底にまたたく生命力の灯火は決して消える事はなかった。
憎んでも憎みきれない敵の事とは言え、プリティヴィーはその驚異的な生命力に驚かされると共に、なんというしぶとい、忌々しい存在なのかとも思う。
彼が毒に負け、生命力の光が掻き消えれば、それで全てが終るのに。
身動きひとつせず、弱々しい呼吸を繰り返すルドラを見ながら、プリティヴィーは考える。
これまでマルト神群は王の不在の時期をひた隠しにし、決して他の神群に王の不在を気取らせなかったのだと、ヤマは言っていた。
かの神群がこのルドラという名を受け継ぐ王の特異な力によって支えられている神群であったのなら、その王が不在であるという事実は当然、弱みにしかなり得ない。
王の力なくしては、自分たちはただの荒くれものの集団でしかないことを、ルドラ一族の者たちは誰よりもよく知っていたのだ。
だから王が死に、次のルドラ王が見つかるまではさり気無く鳴りを潜め、上手く体裁を取り繕いつつ、王がいなくとも容易に勝てるような小さな戦しかせずに周りの目を誤魔化していたのだ。
しかし今、ここにいるルドラ王の命が消えようとしている事は、アーディティア神群しか知らない。
彼が死ねば ―― “ルドラ王”が存在しなければ、ルドラ一族など恐れる必要はないように思われる。
苦戦はするだろうが、王のいないマルト神群に奇襲をかけ、王の死を唐突に知らせて彼らを混乱させ、それに乗じて壊滅状態に追い込むのはそう難しい事ではないかもしれない・・・。
そうだ、今この瞬間は正に、あの悪魔のような集団を消す、最大の好機なのだ。
一族の恨みを晴らす、絶好の機会なのだ。
一生懸命説明すれば、ディアウスも分かってくれるのではないか?
父や母がどんなにマルト神群を恨んでいたか思い出してもらえば、或いは・・・ ――――
プリティヴィーは手にした銀盤を、そっとルドラの口元にかざした。
注意深く見ていると、微かにその銀盤が白く曇る。
銀盤をどかせ、周りを見回す。
この病室へ満身創痍のルドラ王を寝かせたばかりの頃はひっきりなしに人々が様子を見に来たものだが、あれから数月が経った今では監視の目も大分緩くなって来ていた。
このように全く人がいなくなるというのは初めてだったが ―― そう、一緒に彼に付き添っていた無垢の女神つきの女官には先程、足りなくなった薬草を取りに行くようにと言いつけたのだ。
何ら他意はなかったものの、無意識の内に自分は、こういう状況を作れないものかと念じていたのかもしれない。とプリティヴィーはその脳裏の片隅で考える。
考えながらゆっくりとした動作で、プリティヴィーはその両手をルドラ王の首にかけた。
それでもルドラ王は動かず、血の気を失った唇はぴくりとも動かない。
このまま、この手に力を込めればいいのよ、とプリティヴィーは自らに向けて囁く。
恐ろしい悪魔のような男だと聞いていたけれど、ディアウスが言っていた通り、今ここにいるのは強烈な毒に身体の隅々まで侵されたただの病人なのだ。
積年の恨みを晴らし、兄を穢したこの男の息の根を止める機会は今しかない。
そう、今しか・・・ ――――
その時、遠くからぱたぱたと人の足音が近付いてくるのが分かった。
プリティヴィーは身体中の空気を搾り出すような溜息をつき ―― 無垢の女神つきの女官がお待たせいたしました。と薬草の入った籠を抱えて部屋に入ってきた時にはもう、その女官が出て行ったときと同様、ルドラの枕辺に置いた椅子にいつもと変わらない様子で腰掛けていた。
「悪かったわね。すぐに分かった?」
と、プリティヴィーは丁寧に薬草を煎じながら、聞く。
「はい、ちょうどディアウス様がいらっしゃって・・・いいものを選んで下さったんです」
と、屈託なく笑いながら女官は答えたが ―― その回答を聞いたプリティヴィーは眉根を寄せる。
「まぁ、兄さまったら・・・起きていらっしゃるの?昨日顔色が悪かったから、今日は1日寝ていなさいって言ったのに」
「あら、そうだったんですか?」
「ええ、そうなのよ。悪いけど、ちょっと外していいかしら?すぐに戻るけれど、もうすぐアディティーも来るって言ってたから」
「分かりました。大丈夫です」
と、女官は頷く。
そうね、私が1人でついているよりはずっと安全でしょうね。と内心苦々しく思いながら、プリティヴィーはその部屋を後にした。
薬草が保管してある倉庫、天地両神一族がよく集っているテラス、ディアウスが好んで散歩している中庭、その中央付近にあるディアウスお気に入りの湖の周り・・・と、思いつく場所を一通り訪ね歩いたプリティヴィーは最後、摘んできたばかりの薬草を乾燥させる作業をする部屋の中央にひとり座る兄を見つけて溜息をついた。
「兄さまっ!」
「あ、プリティヴィー」
戸口付近で腰に両手を当てて立っている妹を振り返って見て、ディアウスはにっこりとした。
「“あ、プリティヴィー”じゃないわよ。今日は寝ていなきゃ駄目って言ったでしょう。兄さまだって“分かった、そうする”って答えていたじゃない!」
「・・・でもただ寝ているのは退屈だから。顔色だって大分良くなってきているし」
「そうかしら。そんなにいいようには見えないけれど。頬だって青白いわよ」
「それは生まれつき」、とディアウスは苦笑した、「さっき薬草庫を見たら、少なくなってきているものが沢山あったから・・・この作業なら、身体に負担はかからないし」
懇願の色が滲む兄の声を聞いて、プリティヴィーは2度目の溜息をついてから辺りを見回し、蔦で編まれた敷物を手にしてその上に座るようにとディアウスに言った。
直に床の上に座り込んでいたディアウスは大人しくプリティヴィーの差し出した敷物を受け取り、言われたとおりその上に座る。
暫くの間、ディアウスは薬草をひとつひとつ検分する作業に没頭し ―― 或いは没頭しているように見え ―― プリティヴィーはその作業を黙って手伝っていた。
が、ふいにディアウスが、
「プリティヴィー」
と、妹を呼んだ。
「なに?」
と、プリティヴィーは紛れ込んでいた枯れ葉を見て顔をしかめながら答える。
「あの・・・、私が倒れていた間の事を、ちょっと聞きたいんだけれど」
ディアウスは言い、じっとプリティヴィーを見つめた。
プリティヴィーは表情ひとつ変えず、作業する手を一瞬も止めず、ちらりと顔だけを上げた。
「いいわよ。なにかしら?」
「・・・私はあの間、ずっと倒れて意識を失ったままだったって聞いたけれど」
「そうよ。あの時はみんな、兄さまの事をどんなに心配したか知れないわ。だから私だって、こんな過剰に心配してしまうんじゃない。
・・・でも、どうしてそんな事を聞くの?」
「どうしてって事もないけれど」
プリティヴィーの躊躇いの全くない返答を聞き、ディアウスは安心したように微笑む。
「幾月も寝込んでいたみたいだから・・・、あんなに長い事意識を失っていたのは初めてで、ちょっと驚いたって言うか・・・。それにそこまで具合が悪かったにしては、体調も悪くないし・・・」
「・・・兄さまも驚いたのかもしれないけど、私たちは驚いたの驚かないのって域じゃなかったわよ。心配だったし・・・不安だったし・・・あのまま、もし、もしも兄さまが・・・」
半分くらいから涙声になっていったプリティヴィーは、そこまで言った所で声を詰まらせた。
気丈なプリティヴィーのその様子にディアウスは驚き、手にしていた薬草を放り出して妹の両手を優しく握る。
「本当にごめん、プリティヴィー・・、いつもいつも、こうして心配ばかりかけて」
「・・・ううん。いいの。謝らなくってもいいのよ」
と、言ってプリティヴィーはディアウスの身体に両腕を回す。
「兄さまがこうして無事に・・・私の前に座って話をしてくれている ―― それ以上の事なんか、望んでないのよ・・・」
小さく笑ったディアウスの腕が自分がするのと同様に身体に回され、その身体の仄かな温かみを感じながらプリティヴィーは、例えどんなに微細な可能性であっても、この兄を損なう可能性のあることは出来ないと強く思う。
ならばとにかく、一刻も早くルドラ王の傷を全快させ、命を助けた事と引き換えにきちんとした約束(今後必要以上にアーディティア神群に関わらないように、そして勿論今後一切、天地両神一族の者に手をかけない、など)を取り付けて国に帰ってもらおうと、固く決心するのだった。