月に哭く

42 : 預知の真実

 指の関節が白く浮き出るほど強く握られたディアウスの手と、時折痙攣するように震える身体を、ルドラはしばらくの間、黙って見ていた。
 が、やがてゆっくりとしたやり方で、ディアウスの身体を胸深く抱き寄せる。

「おそらくこれは運命なのだ、ディアウス」
 と、ルドラは静かに言った。
 先ほどまでとは打って変わってどのような感情の高ぶりも感じられないルドラの声に、ディアウスははっとして顔を上げる。
 ディアウスの頬に伝う涙を指で拭い、ルドラは続ける。
「おまえも誰かから話くらいは聞いているのだろう、俺が預知者を手に掛けたことがある、と」
「・・・え、ええ、確かに・・・でも信じられなくて。何かの間違いではないかと・・・」
「いや、あの話は本当にあったことなのだ、ディアウス。俺が手に掛けた預知者の名はサラスという ―― 水の女神アーパスの妹で、サラスヴァティー河の流れを司る女神だ」
 ディアウスの蒼い双眸を深く覗き込みながら、ルドラはきっぱりと言った。
 びくりとディアウスの身体が堅く強ばるのがあわせた胸からはっきりと伝わってきたが、ルドラはディアウスの身体を抱く力を緩めようとはしなかった。

 そしてルドラは語り出す。

 貧しい幼少時代、ほぼ軟禁に近い状態で育てられていたのを突然王宮に引き取られ、“ルドラの王”として崇めまつられたこと。
 容姿だけに価値を見いだされ、本質が伴わない自らの状況に疑問と苛立ちを感じていた折、預知者サラスやルドラ一族の文官ナムチと知り合ったこと。
 彼らとの束の間の穏やかな交流と、それを自らの手で叩き壊したこと ―― その瞬間に抱いた血塗られた決意のままに非情な王として一族を率いてゆくことを決意したこと。
 だがディアウスを一目見た瞬間、それまで揺るぎなく抱いてきた全ての決意を忘れて自らの手元に置かずにいられなくなってしまったこと。
 そうして手にした記憶を消される前のディアウスとナムチの娘、ティナの関わり、その最期・・・ ――――

 こんな話を人に聞かせようと思ったことは、ルドラのこれまでの人生で一度もなかった。
 或いは以前のディアウスとどんなに長い時を過ごしても、あの頃の“彼”にはこの話はしなかっただろうとルドラは思う。
 今現在のこの、記憶をなくした後のディアウスにだからこそ話したいと、聞いてほしいと思えたのかもしれない、と。

 そんなルドラの詳細な告白は、数刻にも及んだ。

 話の合間合間に時折挟まれる空白の時がルドラの悲しさや後悔の深さを雄弁に物語っていたが、ディアウスはルドラが語っている間、一言も言葉を発さなかった。
 声を出すどころか、ディアウスはまるで石化されたような格好で、瞬きすらろくにしない。息をしていないようにすら見えた。
 それは告白の最期、先のアスラ神群との大戦を勝利に導いたディアウスの預言についてルドラが口にした時も、一切変わらなかった。

「ディアウス」
 全てを語り終えた後に流れた重く長い沈黙を破って、ルドラがディアウスの名を呼ぶ。
「頼みがあるのだが」
「・・・なんでしょう」
 と、ディアウスは言った。
「以前そなたに渡した石・・・月虹石(げっこうせき)を今一度、俺に見せてくれないか」
 ルドラの求めの声に顔を伏せたまま頷いたディアウスは、首の後ろに回した手で服の奥に隠していた月虹石の入った袋を引き出す。
 取り出された月虹石は、陰りを帯びてきた陽光の中で複雑に光を乱反射させ、部屋のそこかしこに虹色の光を投げかけた。

「 ―― 幼い頃、俺はこの石の貴重さを知りもせず、幾度も幾度もこの石を見せてくれるようにサラスに頼んだ。彼女をこの手にかけた後は辛すぎて見ることができなかったのだが・・・この石の美しさはあのころと寸分も変わらぬな。相変わらず美しいものだ」

 そんなルドラの独白のような言葉を聞いたディアウスはそこで、ゆるゆると視線をあげた。
 その双眸にはどことなく、暗い影がたゆたっている。

「つまりこの月虹石はサラスさまが持っていた石で・・・その後、そのティナさんという方に託されたものなのですね」
「そうだ。サラスはこの石がいつの日か、そなたの手に帰ることを望んでいたに違いない。随分長い時がかかってしまったが」
「・・・そう ―― そう、ですね・・・、・・・」
 と、そこでディアウスは、もうこれ以上我慢ができないとばかりに声を上げて泣きだした。
 ルドラは黙ってそんなディアウスの身体を引き寄せて口づけ、そのままその身体を床に押し倒す。

「・・・っ、ルドラ ―― 戦はまだ・・・」
 流石に驚いたディアウスが涙ながらに言ったが、ルドラはこともなげに小さく笑い、
「こんな時にこんなことをしようとする俺に呆れるか?だが戦況はもう決した。インドラが死ねば、そこで戦は終りだ。四天王の命も全て、もうない。分かっているのだ。だから ―― 許してくれ」
 と、言った。
 ディアウスの肩口に顔を伏せたルドラの底に震えが帯びた言葉に、ディアウスはそれ以上の抵抗をしなかった。

「あなたは何故我々を責めないのです、ルドラ」
 全てが終わった後、移動した寝台の上で、ディアウスが訊いた。
 薄闇の中、髪を軽くなでるように動くディアウスの指先を目を閉じて感じていたルドラが、顔を上げる。

「・・・“我々”・・・?」
「ええ・・・、サラスさまも私も、あなたに普通なら耐えられないような惨い要求をしている。確かにサラスさまの預言通り、私はあなたに会うことで救われました。でもルドラ、あなたは・・・」
「そなたにしてもサラスにしても、もたらされているのは逃れようもない預知という未来の像だ。要求などではなく」
 と、ルドラは言って身体をずらし、天井を見上げる。

 ルドラの予測が合っていれば ―― 合っていないはずもないのだが ―― 勝利の報はここ、アーディティア神殿に届いているはずだった。
 だがどんなに耳を澄ませてみても、注意深く気配を探ってみても、勝利の喜びはどこからも伝わってこない。
 静まり返る沈黙の重さを測るように暫し沈黙してから、ルドラは続ける。

「預知者の力が幼い頃に聞かされてきたようなものであったなら ―― 未来を操作し、いいように物事を動かしているような存在であったのなら、俺はここにいなかっただろう。
“預知という力は残酷な力だ”というナムチの言葉も、“預知者というものは、見た預知がただの幻や夢であるようにと祈り、影で泣くことしか出来ない”というサラスの言葉も、今の俺にはよく分かるのだ」
「・・・でも・・・!」
「もうなにも言うな」
 と、ルドラは天井を睨むように見据えたまま言った。そしてそれから視線だけを動かして、ディアウスを見る。
「そなたに出会うことで救われた部分が、俺に全くないわけではない」

 きっぱりとしたルドラの口調にディアウスはもう何も言わず、その指先が再びルドラの髪を辿るように撫で始める。

「・・・眠って下さい ―― 今はもう、何も考えずに・・・眠って」

 少し後で、ディアウスが囁くように言った。
 言われるままにルドラは両目を閉ざしたが、眠れるはずもないと思っていた。

 だが眠りはやがて音もなくやってきて、優しく、しかし容赦なく、ルドラの意識を束の間の休息の地へと誘っていった。

――――  「月に哭く」第3章 完
最終章に続く...