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いきとしいけるものの記憶には始点があり、幸せな始点を持つ生物はその後も幸せになれるが、不幸な始点を持つ生物は不幸になるのだという。
その説が正しいとすると、俺は決して幸せになれない事が決定している。
俺の記憶は、取引で始まっているのだ。
興奮を隠せずに子供 ―― 俺だ ―― の値段を可能な限り釣り上げようとする、父母の声と共に・・・ ―― 。
ひとつの言い伝えがある。
その昔、一族が暮らすこの地方を、立て続けに不幸が襲った。
雨が延々と果てなく降り続け、氾濫した川はささやかな ―― この地方は元々、お世辞にも肥沃な土地とは言い難かった ―― 田畑を押し流し、崩れた山は家屋を飲み込み、その壊滅的な混沌は悪魔的な疫病を招いた。
疫病が終息の兆しを見せ始めると再び雨が降りだし、必死で生活の立て直しを図ろうとしてきた人々の努力の全てをなかった事にしたという。
それは長きに渡って争い続けていたアスラ一族を統べるヴリトラ神の呪いのせいだとも、両一族の領地の間を流れるストレージュ河に大量の血を流した事を、そこに棲むという龍神が怒っているせいだとも噂された。
「やがて人々は途方に暮れ、日夜、当てもなく祈り続けた」
と、一族の最長老である男は言った。
「だが雨は降りやまず、大地は麻のように乱れ、辺りには死の気配が満ちた ―― その時の事だった」
長老はそこで意味深に言葉を切り、それを受け、周りにいる子供達が息を呑むのが分かる。
俺はどこか冷めた気持ちで、彼らの様子を眺めている。
「祈る人々の前に、一匹の龍が姿を現した ―― 黒曜石のように光る鱗と濃い緑色の瞳を持ち、黄金色の光の珠を手にしたその龍は、人々に向かって言った。
“これ以降時が満ちたとき、そなた達の中に生まれる我の血を引く存在 ―― その者がこの地を統治する限り、我はそなたたちを守り続けるであろう”
そう言い残した龍はあっと言う間に天に昇って見えなくなり、程なくして全ての災いは去り、次いで金色の髪と瞳を持つ我等が一族の中に黒い髪と緑の瞳を持つ赤子が生まれ ―― 一族はその者を王と定める事とし、以来その掟を守り続けている。
災いは二度と我らの元には訪れず、その後我が一族は一切神に“神群”の名を名乗る事を許されるまでの一族になったのだ」
そこまで言った長老は目を細め、俺を見た。
周りの皆も、一斉に崇拝するような視線で俺を見つめる。
「そう、それがルドラ ―― 今そこにいるルドラなのだよ。彼は一族の危難を見過ごす事が出来ずに姿を現して下さったかの龍の化身であり、我が一族の守護神なのだ。
皆、忘れるでないぞ。彼を蔑ろにする事は、一族の危急を救って下さったかの龍を蔑ろにする事であり、一族の滅亡を願うのと同義でもあるのだ。ルドラはなにものにも替え難い一族の宝であり・・・ ―― ルドラ・・・、どこに行くのだ、ルドラ・・・!!」
皆が送ってくる視線に耐えられず、立ち上がって駆け出した俺の背中に長老の声が投げかけられたが、俺は頓着する事無く部屋を飛び出し、そのまま暗く陰湿な雰囲気漂う廊下を全速力で駆ける。
途中誰かとぶつかりそうになり、何かを言われた気もするが ―― それは英雄神インドラの声に似ていた ―― 無視していくつもの廊下を渡り、幾つもの階段を駆け上がった。
どんなに早く駆けても、嫌なものに背中を追われている気がして、ただがむしゃらに走り続け ―― はたと気付くと、俺は城の上にあるメーダの森の中に立っていた。
荒い呼吸を静めながら、ゆっくりと当てもなく、俺は歩き続ける。
長老の賞賛の声、皆の崇拝の視線・・・その全てが、いつまでも耳と目の奥から消えなかった。
一体何年前の事になるだろう ―― 俺は家族と暮らしていた場所から、ここへ連れてこられた。
貧乏でろくに食事もとれず、一応壁があるだけというような隙間風吹きすさぶ家からこの宮殿に来て、ここにある全てが俺のものだと言われてもどうしろというのだ、と思う。
しかもその理由が髪と瞳の色にあると言われ、突然一族の宝だなどと言われても分からない。分かる訳もない。
あの日の出来事 ―― 記憶の始まりの日の事 ―― に、思いを馳せる。
母と父が喜々として俺を隠し部屋から引っ張り出し、金と引き換えに俺を見も知らない男達に引き渡した瞬間の恐怖と共に。
その時男達が、
「こんなギリギリになるまで“ルドラ王”を隠しておくなんて、とんでもない」
「全くだ。金目当てに“ルドラ王”を利用するとは、許しがたい」
などと言っているのを聞き、俺は何故両親が暗い隠し部屋に俺を閉じ込めて出そうとしなかったのか、その理由を悟ったのだ。
畜生、と思う。
絶対に許さない、と思う。
俺は落ちていた木の切れ端を取り上げ、それで木の幹や草花を滅茶苦茶に叩きながら歩き続ける。
何を苛立っているのか、何を許さないのか、自分でも分からないまま、どれ位の距離を歩いただろう ―― 俺の背丈と同じくらいの木を思い切り横になぎ払った、その時。
甲高い鳴き声と共に、小さな黒い影がその木立から飛び出してきた。
驚いて身を引き、頭を庇うようにして上げた腕の皮膚に、鋭い痛みが走る。
見ると地面には、小さな栗鼠(りす)に似た動物が小さな牙をむき出しにし、身体を震わせて俺を見上げていた。
カッとして、それを叩きのめそうと振り上げた俺の手に、新たな痛みが走る。
驚く間もなく、俺と震える動物の間に、それと同じ毛皮を纏った少し大きめの小動物が割って入ってきた。
多分、親子なのだろう ―― そう思い当たった瞬間に、怒りの度合いが増幅した。
こんなちっぽけな動物ですら、こうして親というゆるぎない庇護者を持っているのだ。
そしてそれを持っていない・・・持っていないどころか、そうあるべき存在に売られた俺を、馬鹿にしているのだ。
俺は手にした木切れを放り出し、大小2匹の小動物を睨みつけた。
死ね、と思う ―― 死ねばいい。誰も彼も、死ねばいい。
俺を馬鹿にするなんて、許さない・・・!!
怒りを集中させ、その力を動けなくなっている小動物にぶつけようとした瞬間 ――――
「お止めなさい!!」
という、凛とした声が辺りに響き渡った。