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それは未だ年若い ―― 子供の時期を脱したばかりの少女であった。
彼女は魂が抜けたような格好で、ナムチが死んでいったその場所を眺めていた。
その肌は一族のものより一段薄い色だったが、一族以外の者達のように白くはなく ―― 俺はそれを見て初めて、長い事抱えていた疑問の答えを見つける。
マルト神群の中心を担うのは“ルドラ一族”という戦神(いくさがみ)を中心とする一族である。
とにかく“戦う力があること”を重要視するルドラ一族は、戦神(いくさがみ)を輩出しない一族以外の存在を軽視しており、一族以外の者と親しく話したり、深く関わろうとは一切しない。
俺はちょくちょく“ナムチのように頭のいい、能力を持った男が何故相応の評価をされていないのだろう”と不思議に思っていたのだが ―― 薄闇に佇む彼女を見た瞬間、そうか、そういう事だったのか。と密かに納得した。
そう、ナムチは通例に反して一族以外の女性と親しくなり、その結果彼女が ―― 褐色の肌に金の瞳と髪を持つルドラ一族の者と、それ以外の一族の者、その双方の血を持った彼女が生まれたのだ。
混血児という存在が両一族双方に疎まれる存在となっている事は、俺も聞いて知っていた。
つまり俺は、生れ落ちた瞬間から過酷な運命を担っている彼女に、更なる重荷を付け加える事になってしまったのだ ―― それを思うと、やりきれなかった。
と、その時、俺の存在に気付いた彼女が、俺に向かって静かに頭を下げる。
ゆっくりと彼女に近付いて行き、
「お前は・・・ナムチの・・・?」
と、尋ねると彼女は頷き、
「娘の、シュナと申します。お初にお目にかかります、ルドラ様」
と、言った。
「・・・今日の処刑を・・・見ていた・・・?」
「はい。見ていました」
彼女は答え、再び視線を前に戻した。
それから俺達は長い事黙ってその広場に風が吹きすぎてゆくのを見ていたが、やがて、何故彼女はこうして俺が近くにいるのを嫌がったり、怖がったりしないのだろうかと、不思議になる。
龍宮殿で俺の近くにいる位の高い戦神(いくさがみ)は、本来“ルドラ王”が持つべき力を、俺がまだ完全に掌握しきれていない事を知っている。
しかしそれほど地位の高くない戦神(いくさがみ)やルドラ一族の者はそれを知らないし ―― まして彼女の様な一族以外の者達が、そんな事を知っている筈はない。
実際、俺が何の気なしに目をやっただけで突然地面にひれ伏し、震えだす輩までいる程なのだ。
しかもあの処刑の様子を見ていた ―― 見せられていた、と言う方が正しいかも知れない ―― 彼女は、俺が父親の死体を前に大笑いしているのを見ているはずだった。
「お前、俺が怖くないのか」
と、俺は尋ねた。
「・・・怖いです」
と、彼女は答えた。
「でも、父の最後の言葉があるから・・・分からなくなって・・・」
「・・・ナムチが、なんと・・・?」
「ルドラ様をお恨みしてはいけないと、何度も言っていました。これからどんなに辛い目にあっても、それだけはしてはならないと、約束してくれと・・・」
小さく震える声で、シュナは言った。
「父はいつでも、私達に正しい道を指し示してくれた存在でした。
私と母は父を信じていましたし・・・この気持ちは、そう易々と変わったりはしなくて・・・でも・・・」
震える彼女の声音に、その時初めて、微妙な躊躇いの色がにじんだ。
俺は身体の向きを変え、正面から真っ直ぐに彼女を見た。
彼女も首を巡らせて、俺を見た。
「恨んでもいい」、と俺は言う、「どんなに俺を恨んでもいいから ―― 生きて、この地を俺がどの様に率いて行くのかを、見届けて欲しい ―― ナムチの・・・父親の代わりに」
「・・・ルドラ様・・・」
「・・・そうだ、これを」
と、言って俺はナムチから預かった、例の小袋を懐から取り出して彼女に差し出す。
手を伸ばしてそれを受け取り、袋の中から石を取り出して見た彼女は、その美しさに目を丸くした。
「・・・綺麗・・・、これは・・・?」
「ナムチから預かったものだ」
「・・・父から・・・?」
「そう ―― 決して、人に見せたりせずに、隠して大切に持っておけ。詳しい事は・・・機会があれば、いずれ話す」
この場でサラスとナムチに纏わる話をする気にはなれなかったし、今日一日で余りに多くの事を見てきただろう彼女に、今はもうこれ以上の負担をかけたくなかった。
だから俺はそれだけ言って、視線を空に移す。
シュナもそれ以上は訊こうとせず、右手で石を握り締めながらいつまでも、俺の横に佇んでいた。
あれから ―― サラスとナムチを殺してから幾年がたっただろう。
彼らの顔や声、感じた手の温もり ―― かつて心を激しく震わせた筈のそれらは、今では夢のように遠かった。
“マルト神群を掌握する残虐非道なルドラ王”を演じきる事を自分自身に課した訳だが、今ではどこまでが演技でどこからが自分自身なのか、その境目も曖昧になっていた。
もともとの自分自身がこのような存在だったのだと言われれば、そうかもしれないとさえ思う。
意に沿わない行動をとる戦神(いくさがみ)を容赦なく殺し、領地に忍び込もうとするアスラの悪魔どもを残虐な方法で処刑する ―― あんな処刑方法をよく思いつくものだと戦神(いくさがみ)達が陰で噂をするような方法で。
殺せば殺すほど、その方法が残虐さを増せば増すほど、俺の噂は尾ひれを付けて神群の枠を越えて広がってゆく。
これこそが望んだ事だ。非道さを謳われるのを喜びこそすれ、後悔などしない。
だが、時々思うのだ。
果てのない闇の中で戻る道さえ見失い、最終の目標を定めないままただ強烈に残虐である事だけを目標に走り続ける事は、狂気とどこが違うのだろうと。
もしかしたら歴代のルドラ王もこのようにして狂い、暗闇で手に触れた自分以外の生物の肉を引き裂き、その血を大地に吸わせ続けたのかも知れない。
そうだとしたら、俺はあと何歩進んだら狂うのだろう?
いや、もしかしたらもう既に狂っているのかもしれなかった。
何故なら今朝、アスラ神群が大規模な進軍を始めたと聞き反射的に、極めて自然に微笑んでしまった自分に気付いたのだ・・・ ――――
「 ―――― ・・・王!」
と、呼びかけられ、はっと我に返った。
俺は執務室奥の椅子に腰を下ろしていて、目の前には訝しげな顔をしたインドラが立っている。
幾度か呼びかけていたらしいが、ぼんやり考え事をしていて気付かなかったのだ。
俺は咳払いをし、不機嫌を装ってインドラから目を逸らした。
「只今、斥候から報告が入りました。アスラ神群は我らの領地には入らず、進路を変えた模様です」
「・・・進路を変えた、だって?」
「はい。ストレージュ河は渡らず流れに沿ってそのまま西南に河を下り、我らの領地を過ぎた所でビアース高原へ進路を転換したと」
「我が領地を迂回して ―― ふん、つまり今回の目的はアーディティアという訳か」
はい、恐らく。とインドラは頷いた。
「これはチャンスです、王」
と、いつの間にか集まってきていた四天王の一人、タパスが言った。
「アーディティアを救う振りをして幾人かの預知者を人質にし、彼らを友好関係のしるしだとでも言ってヴリトラに奉げ ―― 油断したところを・・・」
「おい、それ以上下らない事を言うなよ、タパス」
と、俺は舌打ちと共に言う。
「・・・しかし」
「俺は預知者だろうがなんだろうが、囮に頼ってヴリトラに勝ちたいなどとは思わない。
それともなにか、お前は囮がいないと俺がヴリトラを倒せないとでも言う気か」
と言って、じろりと居並ぶ戦神(いくさがみ)達を睨むと、彼らは押し黙った。
「しかしながら、王」、とインドラが沈黙を破って言う、「アーディティアはあの数のアスラには勝てないでしょう。そうなると・・・」
「分かっている。あそこがアスラの領地になってしまうのは・・・問題があるな」
俺は言い、上げた手を額に当てて表情を隠した。
うまくない展開だ、と俺は思う ―― 彼らが預知者を人質にアスラと取引をするという案を決して捨て切っていないのを、知っていたから。
ヴリトラと妃が預知者の身体を喰らい、血を啜る事で精を付け、寿命まで延ばせると信じているらしいという話は、マルト神群の中では周知の事実だった。
だが近年、マルト神群の領地内に預知者が入り込む事はなくなっていた ―― それが俺に纏わる噂話の所為かどうかはわからないが ―― 当然、マルトの領地を越えてアスラの領地内に入る預知者の数は更に減っている事は明らかだった。
それはつまりヴリトラとその妃は今、預知者の身体を喉から手が出る程に欲しているという事を意味しており、預知者を渡すからと言って取引を迫れば、彼らは一も二もなく応じるに違いないこともまた、明らかなのだ。
アスラを叩くきっかけ作りにするには、それが一番手っ取り早く確実な方法である事は間違いがなかった。
だが勿論、そんな事をさせる訳には行かない。
俺が狂っているのかどうかは分からないが、少なくともこの胸にはまだ確かに、彼らと交わした約束が息づいているのだ。
まぁいいさ、と俺は思いながら手を下げて部下達を見回した。
勝手なことをやりだそうとした時は、とめればいい。
今ではもう、昔のように危ういものではない自信が ―― 彼らを完全に服従させている、させられるという自信が、俺にはあった。
「とにかく、アーディティアの領地がアスラに併呑されない程度にアーディティアを助けてやろう。不本意だが」
「王自ら、赴かれるのですか?そんな必要はありますまい」
と、側に控えていたサヴィトリーが言った。
インドラも同意するように頷いたが、俺はそれを無視して立ち上がる。
「すぐに出る」
「王!しかしアーディティア神殿は敵地と同義なのですから・・・御自ら出向かれては危険です!」
「インドラ、いつもいつも、お前は心配しすぎだ。俺を何だと思っているのだ」
「では・・・では、私が、王の名代だと名乗ります。王は従者に扮して頂きたく」
食い下がるインドラを見て、俺は思わず溜息をつく。
「誰が出向こうが、ルドラ一族の戦神(いくさがみ)がアーディティアに行けば無垢の女神が出てくるだろう。いくらなんでも一神群を司る女神に、そんな下らない誤魔化しが通用すると思うのか?」
「通用するかしないかは、やってみなければ分かりません」
きっぱりと言われて、俺は再び深く溜息をついてやった。
怒鳴って提案を却下することも出来たが、そこまでしなければならないことではない。
好きにしろ。と俺は一応の許可を与え、執務室を出た。
龍宮殿から外へ出ると、アーディティア神殿に向かう戦神(いくさがみ)の神馬が数頭、既に階段の下に集まってきていた。
それを目にしながら灰色の空を見上げた刹那、見上げた空の一角の雲が切れ、その隙間から美しく透き通った青空が覗いた。
久しぶりに見る ―― この地で青空や太陽が顔を出すのは非常に稀なのだ ―― 青空が覗く雲の隙間から飛び出すように、タールクシアが天(そら)を駆けて来る。
あっと言う間に俺の元にやって来て鼻面を胸に押し付けるようにするタールクシアの首筋を撫でてやってから、その背に飛び乗る。
後ろに部下達が着いて来られるか確かめもせず、俺はタールクシアの腹を蹴った。
短く嘶き、流れるように空中に駆け上がったタールクシアにつけた手綱を引き寄せながらちらりと天(そら)に目をやる。
しかしそこにはつい先程まで見えていた青空はなく ―― ただいつも通り、不吉な色をしたぶ厚い雲が、どこまでも続いているだけだった。
―――― 月に哭く 番外編 誓い END.