・・・だから嫌なんだ、こういうチェーン展開の居酒屋は。
押し殺しきれないため息をつき、水無瀬司(みなせつかさ)は手にしていたグラスをテーブルに戻した。
その横では席を立つ際にぶつかったぶつからないで、2人の男が睨み合っている。
飲み屋で声を荒げて喧嘩をするほど馬鹿げたことはないと思うし、普段であれば放っておくだろう。
だが片方が自分が責任者を務める部署の部下である以上、知らん顔は出来なかった。
「やめろ元木」
腰を上げないまま ―― 相手は血の気が多そうな青年で、ここで自分まで立ち上がったら収集がつかなくなる気がしたのだ ―― 水無瀬は言い、部下の腕を強く掴んだ。
「そんな挑発に乗るんじゃない」
「でも、マネージャー・・・」
「でもじゃない。いいから座れ。こんなのと同レベルになってどうする」
水無瀬は最後、声のトーンを落とした小さな ―― しかし厳しい声で言った。
職場外とはいえ上司の言葉に、元木は不承不承ではあったが腰を下ろす。
相手はその後も突っかかってきていたが、元木が反応しなかったのでやがて諦めたのだろう。舌打ちと共に手洗いへと去ってゆく。
それを見送ってから、水無瀬は掴んでいた元木の腕を放した。
だが事が収まったのは、ほんの一瞬だった。
男の後ろ姿が手洗いへと消えるか消えないかのうちに、
「・・・馬鹿にしてくれちゃってまぁ。確かにあいつも悪かったかもしれないけどさ、“こんなの”とか“同レベル”とかって、オジサン、どんだけ上から目線なんだよ」
と、言う声が投げかけられたのだ。
声をかけてきたのは先程いきり立っていた男の隣 ―― 水無瀬と背中合わせの席に座る男だった。
三つ編み状のドレッドにした金褐色の長髪を、後ろで無造作にひとくくりにしている頭。
安っぽく(そう見える)日に焼けた褐色の肌。
ルーズリーフの如くずらりと耳につけられた円形のピアス。
日常生活に支障が出そうなほどのごつい指輪がいくつもはめられた手。
雑巾におろす一歩手前にしか見えない穴の開いたTシャツと迷彩柄のパンツ。
それらの服装にそぐわないほどに整えられた眉。
軽薄そうな笑みが浮かべられた薄い唇。
それは総じて、水無瀬が最も苦手とし、反吐が出るほど嫌いなタイプの男だった。
水無瀬は男にちらりと一瞥を投げただけで元通り視線を前に戻して盛大なため息をつき ―― 再び思う。
これだからチェーン展開の居酒屋は嫌なんだ、客層が悪すぎる・・・。と。
*
だがその次の日、水無瀬は再び青年と顔を合わせることになった。
最初に部下とやりあっていた方ではない、その後“上から目線”“オジサン”云々と絡んできた青年だ。
会員制スポーツ・クラブのロッカールームでばったり顔を合わせた青年は、あれ、あの時のオジサン・・・。と呟いた。
水無瀬は眉筋ひとつ動かさずにさらりとそれを無視してやり過ごし、普段通りのローテーションでマシンを回ってゆく。
が、何故か青年も水無瀬と同じローテーションで、しかも隣のマシンを使ってついてくる。
不快だったがマシンを使う順番に口を出すわけにもゆかず、かといって隣に来るなと言うのも大人げない。
水無瀬は感情を堪え、青年の存在を完全に無視したまま黙々とトレーニングを続けた。
青年はそんな水無瀬を横目で見てせせら笑うような素振りを見せながら、やはり黙々とトレーニングを続ける。
お陰で水無瀬はかなりのオーバー・ペースでマシン・トレーニングをしてしまい、その後プールで一泳ぎしようと思っていたのを諦めてロッカールームに向かった。
忌々しい、と頭からシャワーを浴びながら、水無瀬は思う。
あんな青年相手にムキになってしまった自分も、負荷が水無瀬よりも数段高いのに(ちらりと横目で盗み見たのだ)全く余裕綽々で、当然のように水無瀬が諦めたプールへ向かった青年も。
だがまぁいいじゃないか、と水無瀬は息をついてささくれ立つ精神を宥める。
このスポーツ・クラブは全国展開をしている大きなクラブで、会員になると全国どこの施設でも使用することが出来る。
今日は近くに用があったのでたまたまここに来ただけで、水無瀬は普段、自宅に近い別の施設を使っているのだ。
だからここに来なければ、もう二度とあの青年に会うことはないだろう、と。
しかし ―― しかし何の因果か、なんとそれから数時間もたたないうちに、水無瀬は三度青年と顔を合わせることになった。
スポーツ・クラブを出た後に水無瀬が立ち寄ったバーに青年が入ってくるのを見た水無瀬は、思わずとまり木からずり落ちかけた。
「あれ、オジサンもソッチの気?」
と、青年は言い、断りもなく水無瀬の横に腰を下ろす。
新宿の片隅にある“Queen”という名のこのバーは、同性愛者が集う店なのだ。
「なんだ、2人は知り合い?もしかして付き合ってるとか?」
青年におしぼりを差し出しながら、マスターが訊いた。
この店のマスターは40近い年齢の、苦み走ったいい男だ。
基本的にお酒やつまみは全て彼が作り、彼の他にはマコトという従業員が1人いる。
マコトは20半ばの可愛い雰囲気の青年で、マスターと彼、それぞれを目当てに店にくる客も少なくないらしい。
「冗談やめてくれよ、こんなオジサンは俺のタイプじゃない。むしろ真逆」
受け取ったおしぼりを空中で揺らしながら、青年は答えた。
「何を偉そうに。こっちもお前みたいなチャラチャラしたホスト崩れみたいな男は、頼まれたって願い下げだ」
「偉そうなのはどっちだっつの。タイプ云々以前にアンタ無駄にプライド高そうだから、相手の背景ばっかみて恋愛してそうだよなぁ」
「そういうお前は若いだけが取り柄みたいな軽いのに、ホイホイ引っかかってそうだよな」
「あんだと、コラ」
「“あんだと”なんて日本語はない。自国語くらいまともにしゃべれないのか」
「・・・っ、むっかつく・・・」
「そこは100%乖離なく同感だ。その点は気が合うな」
言いあう水無瀬達を見てマスターも、出勤してきたマコトも笑った。
「水無瀬さんがそんな風に人に突っかかるなんて、珍しいですね。いつもクールで格好いいのに」
と、マコトが言い、
「水無瀬さんに向かって“オジサン”なんて言うのも勇気あるよ。祐二(ゆうじ)くん、この店にはこの人の熱烈なファンが多いんだ。この店で彼に向かってそんな口をきいていたら、店の外で刺されるよ」
と、マスターが言う。
「・・・ああ、水無瀬って凄い美人がいるって、噂の主がコレ?アンタ、何歳?」
「・・・32」
オジサンの次はコレとアンタ呼ばわりか、と内心むっとしながら水無瀬が答えると、
「24の俺からしたら、立派にオジサンカテゴリだ、それ」
と、祐二は水無瀬の神経を逆撫でするように、声を上げて笑いながら、言った。