全てが終わった後に向かった浴室で、汗やらなにやらでべたべたになった身体を洗い合う。
 思わずそこでも欲情しかけたのだが、そんな俺を後に残して、恋人はさっさと先に浴室を出て行ってしまった。
 俺がよからぬ行為に出そうな気配を、敏感に察したのかもしれない。

 湯の張られた広い浴槽に心ゆくまで浸かってから寝室に戻った俺に、恋人は黙ってグラスを差し出した。
 グラスにはウォッカにたっぷりとレモンを絞ったものに、大きな氷の塊がひとつ入っている。
 恋人の方にはそれよりも小さな氷が複数入っているので、氷の選択の差は後から来る俺の為だ。

 こういう気付くか気付かないか微妙な線に位置する細かい気の遣い方を、この恋人はよくする。
 気付かないままでいると本当にそのままスルーして終わってしまうので気が抜けない面もあるが、最近はそれを見つけるのも楽しみのひとつになっていた。
 表だって礼を言ったりすると不機嫌になるので難しいが ―― 照れているのだ ―― 気付いているのといないのでは大きな違いがあると思う。多分。

「明日は休みだって言ってたよな?」
 しばらく黙ってグラスを傾けていた恋人が、訊いた。
「いや、指名が入っちまって、朝イチで店に顔を出さなきゃならなくなった」
 と、俺は答えた。
「お得意さまだから、断れなくってさ」
「・・・、じゃあ今から家に帰るのか?」

 開店と同時に店に出る日の前日、俺が必ず家に帰っているのを知っている恋人が訊いたのに、俺はため息をつく。

「んー、そのつもりだったんだけど・・・今から帰んの、面倒くせぇな」
 そう言って氷をグラスの中で一回転させた俺を横目で見ていた恋人が、何気ない口調で、
「いっそのこと越してくればいいんじゃないか。ここに」
 と、言った。
「・・・マジ?」
「お前ここ最近、週の半分以上泊まって行っているじゃないか。それで1ヶ月分の家賃を払っているなんて、勿体なくないか」
「・・・んー・・・、ま、そりゃそうなんだけどさぁ・・・」
 恋人がそんなことを言い出すと思っていなかった俺は、内心とても驚きながら言葉を濁す。
 そんな俺の煮えきらない反応に恋人は肩を竦めて飲み終わったグラスをサイド・テーブルに置き、布団の中に身体を滑り込ませた。
「別に、無理にとは言ってない。このままの方がいいなら、それでいい」
「いや、そういう意味じゃなくてさ ―― や、正直なところを言うと、こんなすげぇマンションの家賃半分とか、とてもじゃねぇけど払えねぇなと思ってさ」
「 ―― 家賃なんてない」
 と、俺に背中を向けたまま、恋人が言った。
「は?」
 と、俺は言った。
「ここは完全分譲マンションだ。まぁ、月々管理費と修繕用の積み立て費の支払いはあるけどな」
「・・・つまり、アンタ、買ってんのか、このマンション」
「ああ」

 どうということもない。という風に恋人はあっさりと認めたが、俺にとっては驚きの話だった。
 新宿の中心部からは多少離れているものの、地下鉄の駅がすぐそこにある豪奢な ―― 高級ホテルのようなエントランスには噴水まであって、敷地内には緑も多く、本格的に身体を鍛えるには物足りないものの一応プールやジムまで併設されている ―― マンションの、最上階。
 当然買おうと思ったことも興味もないのでよくは知らないが、こういう物件とはいわゆる、億ションといわれるシロモノなのではないだろうか。

「・・・マジで凄ぇよな、アンタは・・・」
 本当に生活レヴェルが違いすぎるよなぁ。と思いながら俺が呟くと、恋人は布団の中で身体を反転させ、
「別に凄くない。自暴自棄と当てつけの集大成なんだから」
 と言い、俺の腹部に手を置いた。
 さっきまでグラスを持っていた手だったので、思わず声を上げそうになるほど冷たかった。
「冷てぇよ ―― なんだよその、集大成って」
「・・・、俺の家は祖父が都の教育委員会の重鎮で、父は国立大学の教授をしていて、母は某お嬢様学校の学校長っていう、教育者一家なんだ」
 唐突に、恋人が語り出す。
「想像がつくだろうけど、もの凄く厳格な家だ。だから一人息子が同性愛者だと判明した時はもう、近しい親戚をも巻き込んで大騒動になった。まさに阿鼻叫喚の嵐」
「・・・あー・・・」
 と、俺は言ってこきこきと首を鳴らした。

 俺たちのような性癖を持つ人間にとってそれは、決して珍しい話ではなく、慰める気にもならない。
 慰められたところで問題は解決しないと、皆知っているのだ ―― 悲しいほどに。

 だから俺はわざとらしくならない程度の軽い口調で、
「もしかして精神病院とか、回らされたクチ?」
 と、訊いた。

 変に深刻そうにしない方がいいという予感に従ったのだが、その予感は当たっていたようだった。
 俺のその声に恋人は素直に頷き、俺の胸にそっと右の耳を押し当てた。

「数を数えるのが面倒になるくらい、いろんな精神科に行かされた ―― ほとんどの先生が精神的な問題ではない、病気ではないからと言ったけど、誰も納得しなかった。あげくの果てにお札まで飲まされた」
「お札?」
「ああ、昔あったって言うだろう、狐憑きとか。江戸初期からその手のまじない治療をしていたっていう神社に連れて行かれて、祈祷の最中に」
「・・・言葉もねぇな」
「当時の俺もまさにそんな心境だった。そこまで行くと反抗する気にもならなくて ―― そんな時だよ、株取引で大儲けしたのは・・・お前も調べたって、言ってたよな?」
「・・・あれ、本当の話なんだ。ネットじゃいろんな説が飛び交ってて、マユツバなのかなって、思ってたけど」
「・・・どんな説?」
「んー、大半は金額の邪推?稼いだのは1億近いとか、実は2億以上だろうとか・・・その半分近くをどっかに寄付したらしいとかって記事もあったぜ」
「あの取引で稼いだのは1億5千万くらいだから、金額としてはあながち間違いじゃないな ―― 企業側の株単価の桁入力間違いで、偶然とラッキーが重なった取引だった。
 でも寄付はしてない。寄付はしてないけど、1億円を親に贈与した。それまでの養育費だと、もう俺の存在はなかったことにしてくれと言って・・・その残金を頭金にして、ここを買ったんだ」
「・・・なるほど」
「産んで、育ててもらった恩は1億なんかじゃ購えないと今になって思うけど、当時は俺も若かったし、親の仕打ちに頭にもきてた。普通にマンションを借りればいいのにこんな派手な物件を買ったのも、親に見せつけてやりたかったからだ。親の世話にならなくても、こんなにも立派に生活出来るんだ、幸せにやっていけるんだ、と ―― 」
「もういいよ」
 と、俺はなんだか壊れたように話し続ける恋人の、左側の頭をそっと押さえて言った。
「そんな話をしても、思い出して辛いだけだろうが」
「・・・話さなくても、ここにいると思い出すんだよ」
 と、恋人は言って首を曲げ、俺を見た。そしてなぜか悪戯っぽく笑う。
「だからさ、お前みたいに脳天気な奴がいれば、暗いことを思い出して落ち込んだりしないんじゃないかと思って」
「・・・あのなー・・・、どうしてそういう言い方になるんだか、アンタってほんっと、発言がいちいちムカつくぜ」

 そう言って俺は恋人のさらさらした細い髪の毛を乱暴にかき回す。
 が、それほど真面目に怒っている訳ではなかったし ―― こんなことくらいで怒っていたら、この恋人とはつき合っていられない ―― 恋人もそれは分かっているのだろう、謝ろうともしなかった。

「・・・んじゃ、お言葉に甘えて、今度の休みにでも引っ越してくるかな」
 しばらくじゃれ合うようにキスをしたり身体をまさぐり合ったりしてから、俺は言った。
「そうしろ」
 と、恋人は言った。

 まるで興味がなさそうな言い方だったけれど、恋人の双眸がどこかほっとしたように細められたのを、俺は見逃さなかった。
 可愛くねぇよな、ホント。と思うのと同時に、そここそがどうしようもなく可愛いと感じている自分もいて ―― 一番ひねくれてるのはてめぇなんじゃねぇの。などと、自分で自分にツッコミをいれてしまう、俺だった。

―――― 一緒に暮らそう END.