39 : 降りしきる雪の中で
一体いつからそこに立っていたのだろうか。
分からないが彼の髪やコートのあちこちに雪が纏わりついていて、その肩にはうっすらと雪が積もっていた。
寒いだろう ―― 寒いに決まっている。完全に氷点下の世界なのだ。
けれど彼は、寒さなど、全く感じていないように見えた。寒そうにも見えなかった。
雪の中に立っている彼の姿は現実味がまるでなく、俺は自分が夢を見ているのだろうかと思った。
刻一刻と強くなる雪が見せる、幻覚なのだろうかとさえ思った。
衝撃のあまり声も出せずにいる俺に気付いた彼はゆっくりともたれかかっていた門扉から背中を離し、一歩一歩雪を踏みしめて、俺の方へと歩いてくる。
そして、1年経っても忘れることが出来なかったあの掠れかかった低い声で言う、「やあ。久しぶり」
そう言われても俺は ―― 俺は、半分口を開けたような状態で固まったまま、何も言えない。
目の前にいる香椎先生が本当に現実の世界で、目の前で呼吸している人であるという事が、全く信じられなかった。
だって、彼がここに現れる筈がないのだ。
俺が引っ越した先が札幌だと知っているのは陽介だけで、他の誰にも、俺は自分のいる場所を知らせていない。
実に不義理な話ではある。しかし事情が事情だけに、俺は以前の病院で仲良くしていた人にすら、引っ越した先を教えていなかった。
今でも何人かとメールのやり取りはしているけれど、何だかんだと理由をつけて、住所や今いる場所についての言及を巧みに避けていたのだ。
それなのに・・・ ――――
どうして、と問いかける言葉は、どうしても、どう努力しても、声にならない。
でも俺の表情から、俺が何を訊こうとしているのか察したのだろう、
「ある人に、ここの事を教えてもらったんだ。実に大変だったけどね」
と、彼は簡潔にそう説明した。
それでも俺は何も言えない。
沈黙があった。
雪交じりの凍えた大気が、流れる沈黙をどんどん気まずいものにしてゆく。
徐々に重くなってゆく空気と、何か言わなければ。という気持ちが絡み合い、焦れば焦るほど、俺の手の届く範囲から言葉が消えて行った。
そうして何も言おうとしない俺を見下ろした香椎先生は、長いこと黙っていたけれど、やがて短く息を吸い、
「今更だとは思うけれど、君に謝らなければならないと思って来たんだ」
と、言った。
謝る・・・?どうして・・・?と、俺は呟く。
でもやはり、その呟きは声と言う名の音にはならなかった。
指で文字が書けそうなほどに白い息が、唇から吐き出されただけだ。
彼は構わず、静かに続ける。
「恐らく俺は、知らない間に沢山、君を傷つけたんだろう。何も知らなかったとか、気付かなかったとか・・・今更そんな下らない言い訳をする気はない。ただ・・・ただ、君に、きちんと謝りたかった。
何も気付かなくてすまなかった。酷い事を言ってすまなかった ―― きちんと君を好きだと伝えなかったことも、すべて、何もかも、俺が悪かった」
そう言って彼が言葉を切ってからも、俺は声を発する事が出来ない。
声を発するどころか、俺は何かを感じることすら出来なかった。
彼が何を言っているのか、俺に何を伝えようとしているのか、上手く理解出来なかった。
「なぁ、頼むから、何とか言ってくれないか」
会った瞬間から全く言葉を発さない俺に、彼が苦りきったような声で懇願する。
「怒ってくれていい。ののしるんでもいい。何でもいいから、何か ―― 何か言ってくれ。頼むよ・・・」
それでも俺は ―― 俺は、ものが言えない。
彼は血の気の引いた唇を噛み、踏み固められた雪に覆われた地面に視線を落とす。
きつく寄せられた眉根に、凍えた雪が何度もぶつかっては落ちてゆくのが、妙に印象的だった。
何度も、何度も、何度も努力して ―― ようやく俺は、どうして・・・。と小さく呟く。
弾かれたように、彼が伏せていた目を上げる。
「・・・どうして今更、そんな事、言うんですか ―― もう・・・忘れて・・・・・・」
寒さのせいだろうか、衝撃の強さのせいだろうか、唇が震えて、上手く言葉が話せない。
それでも必死な思いで、途切れ途切れに俺がそう言うのを聞いた彼の目に、隠そうと努力したけれど隠しきれなかったといった風情の強い落胆の色が走った。
「・・・もう忘れよう、って・・・、忘れなきゃって、何度も ―― 何度も思って・・・、決心して、駄目で、また決心して、駄目で、って・・・どうしても、忘れられなくて ―― だから、それなら、好きな事そのものを思い出にして生きて行こうって、思ったのに・・・ ―― !」
悲鳴になりかけた声が、強引に抱き寄せられた事で寸断される。
彼の両腕が俺の背中に回され、強く抱き寄せられる感触。
彼の冷たい指が、首筋を撫でるように引き寄せる感触。
同時に感じる、彼の唇が耳朶に押し付けられる感触。
俺の名前を囁く彼の低い声が、鼓膜を撫でてゆく感触。
忘れようとか、そうしなきゃいけないとか、何度も自分に言い聞かせても忘れられなかった、色褪せて行かなかったそれらが、唐突に現実のものとなって俺の目の前に差し出される。
それらを間近に感じた瞬間、この1年間、自分がどれだけこの感触を恋焦がれていたのかを、嫌というほど思い知らされる。
「君を愛している。誰よりも、何よりも、君を愛している。君が許してくれるまで、何度だって謝る。君が望むことなら何でもするから、だから ―― だからもう一度、最初からやり直してもいいと、言ってくれ」
耳元で熱く囁かれるその言葉を聞いて ―― 俺は答えを返す代わりに、そろそろと上げた両腕を彼の背中に回してゆく。
それは、愛し合っていない限り、決して許されないと思っていた行為。
彼の背中に、腕を回すこと。
何度も抱かれて、手を伸ばせばすぐそこにあったのに、それはこの世のどこよりも遠い場所だった。
長い時間をかけて背中に回した手に力を込めたのと同時に、彼の両腕が更に強く、深く、俺の身体を抱き寄せる。
ずっと、いつから堪えていたのか定かではない涙が、頬を伝い、零れ落ちてゆく。
それは悲しい涙ではなく ―― 彼の事で、こういった類の涙を流せるなんて想像もしていなかったような、喜びによる涙だった。
涙はいつまでも止まる気配がなく、黙ってそんな俺を抱きしめてくれていた彼はやがて、痺れを切らしたような雰囲気で俺の顎を掬い上げて口付ける。
初めて交わす恋人としてのキスは、涙と、雪の味がして ―― 俺が流した涙はどれだけの雪を溶かしたのだろうかと脳裏の片隅で考えながら ―― 俺は真っ白に降りしきる雪の中、そっと、ゆっくりと、瞳を閉じた。
―――― Fight C Luv Side-A END.