Fight C Luv

38 : 鮮やかな思い出

 そうして東京を後にしてから、1年の歳月が過ぎた。

 あの後、俺は札幌郊外にマンションを借り、市内にある総合病院の精神内科に働き口を見つけ、今もそこで働いている。
 総合病院といっても以前の病院よりは規模は小さめで、そのせいもあるのだろう、スタッフが科を越えて和気藹々と仲良く交流している雰囲気が病院中に漂っている、とても感じの良い病院だった。
 俺が所属している精神内科は女性のスタッフが多かったけれど、みんなサバサバした良い人たちばかりで、本当に働きやすかった。
 東京と違って街並みも美しく、人ものんびりしている感じで親切で、車も少なく、空気も綺麗で ―― 数ヶ月暮らして色々と慣れてくると、“俺、東京よりもこっちの方が合っているかも”とさえ感じる程だった。

 東京を出るときに“絶対に頻繁に連絡を取り合おう”と約束した通り、陽介とはたびたびメールや電話でやり取りをしている。
 今年の夏休みには、陽介と沙紀さんが札幌に遊びに来てくれたりもした。
 俺はまだ東京に遊びに行く気にはなれないのだけれど、来年の春に予定されている陽介と沙紀さんの結婚式に参列する為、一度東京に帰るつもりでもいた。
 友人は東京の人が多かったので、久々に会えるのが楽しみではあったけれど ―― あれから1年経った今でも、東京の事を考えると反射的に思い浮かぶのは香椎先生の事だった。

 彼はどうしているのだろう、とか、
 病院長の娘さんと、もう結婚したのだろうか、とか、
 元気でいるのだろうか、とか・・・ ―― そういう事が、やはり少し、気になった。

 陽介は“仕事が忙しいせいで結婚式の準備に全然手をつけられなくて、沙紀がキレまくってて参る”などというメールを送ってくるにも関わらず、香椎先生の件については一切何も言ってこなかったから、状況があれからどうなったのか、俺は全く知らなかったのだ。
 俺からは聞き辛かったし ―― 実際、香椎先生については一切話さない。という陽介の心遣いが有難い時期も確かにあった。
 先生の事を思い出すだけで辛くて辛くて、堪らないと感じる時期もあったから。

 最初の数ヶ月は、病院で脳神経外科の医師が手を洗っているのを見たり ―― そう、我ながらどうかと思うが、再就職先に脳神経外科のある病院を選んでしまった俺だった。脳神経外科は他の科に比べて雰囲気が特殊なので ―― 外科の手術に使う医療道具を見かけたりするたび、病院での香椎先生の様子を事細かに思い出してしまったりした。
 文字の書き方が香椎先生と似ている医師が書いたカルテを見るたび、ドキッとしてしまったりした。
 食事に行かないか?と男の人に誘われたりするたび、淡い影のようになった彼の横顔が記憶のスクリーンをさっと横切ったりもした。
 眠れない夜に彼の手や唇の感触を思い返してどうしようもなくなり、あてどなく夜の街を車で放浪したこともあった。

 しかしそこを過ぎてみて ―― 彼の事を忘れたわけではないけれど、冷静に一歩引いたところからあの頃起こった事件の数々を考えられるようになってみて ―― 気になるのは、一番最後に会った時の彼の様子だった。
 あの忙しい彼がわざわざ俺の家にまで来て、事の真相を問いただそうとした時に、彼が抱いていた真意とは一体、どんなものだったのだろうか。
“今まで払っていなくて悪かった”と現金を渡され、“今度暇になったら、道具を使え”と言われた時に俺は物凄く、物凄く、ショックだったけれど ―― 今思い返してみると、その台詞を口にした時の彼の瞳の色は、どこか打ちのめされた色がたゆたっていたように思えた。

 こんなの、後から自分のいいように考えているだけかもしれない。
 あれから1年も経っているというのに、未だに彼を忘れ切れていない俺が、自分の気持ちの良いように記憶の編集をしているだけなのかもしれない。

 大体こんな事を後からどんなに考えた所でどうしようもないし、今更彼の真意が分かったところでどうしようもない。
 三田村さんに“もう終りにしたんです”と言ったあの時以上に、物事は“終って”しまっているのだ。

 先生を忘れたくないような気もしたけれど、そろそろ忘れた方が楽に決まっていた。
 俺のことを好きだとか、付き合ってほしいとか、そう言ってくれる優しそうな人と付き合って、忘れてしまえるものなら忘れてしまった方がいい。
 そうするべきなのだ。
 そうした方がいいに決まっているのだ。

 でも ―― 俺はどうしても、香椎先生の事が忘れられなかった。
 彼の事はきっぱり忘れよう、その方がいい。そうしよう。と考え、決心し、誘われるままに誰かと食事に行ってみたりもした。
 しかし突っ込んで色々な話をする段になると必ず、脳裏の隅っこの方で“香椎先生はこんな言い方はしないだろうな”とか、“香椎先生ならこんな場合、なんて返事をするだろう?”などと考えてしまう自分がいた。
 次いで、ああ言うかも知れない、もしかしたらこう言うかもしれない、とにかくこんな時は絶対に例の薄い笑みを口元に浮かべるに違いない、とまで考え ―― さらに自分がそれに対してどう答えるか・・・なんて脳内シミュレイションをしてしまうことまであった。
 そしてそんな自分に気付き、ひとり苦笑いしたりして。

 自分がこんなしつこい性格だったなんて思ってもみなかったので、新鮮な驚きみたいなものを感じた。
 今まで俺は、自分が恋愛関係には淡白 ―― とまではゆかなくても、切り替えはそれなりに出来る性格だと思っていたのだ。
 悦郎と別れた後、もちろん落ち込みはしたけれど、別れて1年後、他の人と話している最中に悦郎と目の前の人を比べたりはしなかった。

 年をとるにしたがって性格がしつこくなってゆくというのは、あまり歓迎すべき傾向ではないよな・・・。
 などと悶々としつつ俺は、これはもう仕方ないのかも知れないと思うようにもなっていた。
 彼との関係は一生忘れられなくてもおかしくないような、とても特殊なものであったのは確かなのだ。
 綺麗さっぱりと、忘れる方が難しいかもしれない。

 それならそれでいいかな、と俺は思った。
 彼の気持ちがどうあったとしても、俺は彼を本当に好きだったし、それを忘れる必要はない。
 忘れようと努力するのではなく、少しだけ痛みを伴ういつまでも鮮やかな思い出として、それを抱えて生きてゆこうと思った。

 今は想像も出来ないけれど、いつか誰かを愛する事になってもきっと、俺はふとしたきっかけで彼を思い出し、思い出す度に今と同じように心を痛ませるだろう。
 そんな忘れられない思い出をひとつくらい、そっと抱えて生きて行くのも、悪くないかもしれない・・・。

 つらつらとそんな事を考えながらカルテの整理をしていた俺は、後ろから名前を呼ばれて飛び上がりそうになった。
 慌てて振り返ったそこにいたのは、科のマネージャーの五反田(ごたんだ)さんだった。
 考え事をしながら仕事をしていたので(社会人として最低だ)、何度も呼ばれていたんだったらどうしよう。と心配になったのだけれど、それは取り越し苦労だったようで、五反田さんは、
「秋元くん、勤務時間1時間も過ぎてるし、もう帰っていいわよ」
 と、にっこりと微笑みながら言った。
「でも、まだカルテ整理、終わってないですけど」
「いいわよ、あとはやっておくわ。外、雪の勢いが強くなってきたから・・・この分だとあと1時間もすると吹雪いてくるわよ」
「そうよー、そうなると雪に閉じ込められて、また1回り働かなきゃならなくなるわよ」
 と、同僚のカウンセラーが言い、周りにいたみんなもそれを聞いて笑った。
 俺も笑い、じゃあ、と仕事を途中で切り上げて帰らせてもらう事にする。

 ロッカールームに向かう途中で窓の外を見ると、確かに雪の勢いが強くなって来ていた。
 東京で雪が降ると交通機関が軒並み死に絶えてしまうけれど、こっちは流石にちょっとやそっとの雪では交通機関はびくともしない。
 そもそも、電車は殆ど地上を走っていないのだ。
 でも強く吹雪いてくると駅までの道で遭難しそうになったりもするので(本当の話)、俺は急いで服を着替え、病院を後にした。

 東京からこっちに越してきた冬、何が驚いたかと言えば、こちらの冬が東京よりもずっと暖かいという点だった。  むろん、外は寒い。
 けれど建物内は暖かい ―― というか、暖房が完璧すぎて暑いと感じる程で、雪の降りしきる外の空気がかえって気持ちがいいくらいなのだ。
 建物の中では半袖を着ている人までおり、分厚いセーターを着ている人なんて一人もいない。

 とはいえ実際に外は凍えるほど寒い訳で、頬を撫でる風を気持ちよく感じつつ、コートの襟を片手で引き寄せて顔をあげた俺は ―― そこで、愕然とする。

 病院の出入り口、煉瓦作りの門扉の右脇に、一人の男性が立っていた。

 両手をコートのポケットに突っ込んで傘もささず、そこに立っているのは ―― 門扉に軽く背中を預け、厳しい射るような視線で切れ目なく雪を落としている空を見上げているのは ―― 俺がつい先ほどまでリアルに思い返していた、香椎先生、その人だった。