10 : 始まりの場所へ
彼が勤務している病院名が判明した後、すぐさま(恐らくは白石沙紀が望んでいたように)飛行機の手配をし、その足で北海道に飛んでゆきたいのは山々だった。
だが学生時代であればともかく、社会人、医師になった今 ―― オペのスケジュールは既に、3ヶ月先までぎっしりと埋まっているのだ ―― そんな勝手な真似をするのは不可能だった。
俺は文字通り足ぶみするような気分で予定されていたスケジュールをこなし、きちんと最後まで責任を持って経過を見届けられないだろうと判断した患者は信頼のおける適当な医師を選んで経過説明をし、後を任せた。
実家の病院を経営している親の言いつけで俺の目付け役(彼女にはそういう気はないようだったが、口うるさいのでどちらにしても同じ事だ)をしている三田村圭子はそんな俺を見て、
「投げやりでなく、こんなに真剣に仕事をしている裕仁さんを初めて見ました。実に感動的な光景ですね」
などと言っていた。
普通の時であったなら怒鳴り返すところだが ―― 俺がいついい加減に仕事をしていたと言うのだ?つくづくと失礼な女だ ―― 今回はさらりと無視してやった。
今は彼女になど、構っている場合ではないのだ。
俺は元から勤務に関しては我侭を言ったりやったりしなかったため、俺の突然の申し出に表立って反対したり文句を言ったりする同僚はいなかったように思うが、結局スケジュールを白紙にする為には4ヶ月以上の時間がかかってしまった。
出来れば本格的な冬に入る前、彼と最後に会ってから1年経たない内に会いに行きたかったのだが ―― しかしまぁ、仕方ない。
そもそも、無茶苦茶な事をやっているのは俺の方なのだし、4ヶ月ほどで全ての片がついた事がそもそも奇跡なのだ。
だがその4ヶ月強という期間はスケジュールの片を付けるのには短かったが、様々な想像をリアルに巡らすのには充分すぎる時間だった。
俺が東京を抜けだせないでいる間、そんな事とは思ってもみないであろう彼がどうしているのだろう、とか ―― 彼がこの病院に勤務している間に言い寄られていた相手に対する、すさまじいばかりのあしらいぶり(桜井陽介や白石沙紀の口振りからすると、本人はそんなつもりではなかったのかもしれないが・・・未だに完全には納得しきれないでいる俺だった)を見てきているだけに、想像すれば想像する程、不安の影は濃くなってゆく。
自らがする想像に自ら嫉妬しているのだ、実に馬鹿馬鹿しい。
電話くらいしてみようかとも思ったが、どう考えても電話で始められる話ではなかった。
そもそも電話で第一声、何をどう言えばいいのか、さっぱり分からない。
最初は彼の目の前で、その顔を見ながらでないと、何も話せないと思った。
そう、そう決めたのならここで考え込んでいても意味はない。
とにかく全ては彼に会ってからしか始まらないのだからと、何度も自分に言い聞かせ、勤務を続けていた俺だった。
が、それに納得しようとする自分の後ろでしょうもない妄想は止まらず ―― 仕事が片づいたその日に新千歳空港行きの飛行機に乗り込んだ頃には、今更彼に会いに行こうとしている自分のこの行為に果たしてどんな意味があるのか、よく分からなくなっていた。
“直くんはまだあなたの事を忘れられていないんじゃないかと思うの”という白石沙紀の言葉だけが俺が縋れるべき唯一の希望の欠片だった訳だが、今ではそれも決して磐石なものとは思えなくなっていた。
だってそうだろう、本人の事は、当の本人にしか分からないのだ。
ましてやそれが恋愛問題ともなれば、本人にすら判らない事も多々あるものだろう。
それにもし今現在彼が幸せに暮らしていたとして、俺は影からそれをただ見て、納得して、黙って身を引く事が出来るのだろうか?
自分が彼にしてきた事を思えばそうするのが当然なのだが(当たり前だ)、実際にその光景を目の当たりにした時、理性的な行動ができるのかと自問してみると ―― 答えはあっと言う間に混沌とした世界に沈み込んで行ってしまい、はっきりとしなかった。
そう考えると、彼に会いに行くという俺の行動は、今現在幸せに暮らしている彼を再び混乱させる事になるかもしれない。
少なくとも、その可能性は決して、誰にも、否定出来ないのだ・・・ ―― 。
そこまで考えた所で、俺は軽く首を横に振ってそんな妄想を頭から振り払い、息をつく。
妄想の霧は完全に晴れた訳ではなかったが気にしない振りをして首を曲げ、窓から離陸直後の外の景色を眺めてみる。
俺が座っているのは丁度飛行機の翼の辺りで、東京湾岸のごちゃごちゃとした汚い景色が、いびつな三角形に切り取られて見えていた。
やがてスチュワーデスが、この飛行機は順調に水平飛行に入りつつあるという事、シートベルト着用のサインは消えたが、座席に座っている間は念のためシートベルトは締めたままでいるように。というアナウンスをしているのが聞こえてきた。
軽く鼻にかかったようなそのスチュワーデスの声を聞きながら、俺はシートに深く背中を沈める。
そして俺は、自分自身に言い聞かせる。
いいか、もう何も考えるな。
全ては彼に会ってから始まるのだ。
この4ヶ月強の間、何度も繰り返し続けてきたその言葉を再度丁寧に心に染み込ませつつ ―― 出来る限り頭の中を空の状態に保つ努力をしつつ ―― 俺は目を閉じる。
そして飛行機のエンジンの低いうなりを耳にしながら、つかの間の、浅い眠りの世界へと意識を沈めた。
―――― Fight C Luv Side-B END.