1 : 心が軽くなる告白
きつく抱き合って、キスをして ―― その後の俺たちがまずしたのは、喧嘩、だった。
今までお互いに全然話し合わずに勝手に誤解し合っていた事柄が驚くほど沢山あって、俺たちはアパート(とりあえず俺のアパートに行く事になったのだ。狭いのに)に向かう道すがら、ずっと話し合い ―― もとい、言い争いのし続けだった。
「確かに俺が悪かったのは認めるけどな、それにしたって、君も君だ。勝手に想像して、納得して、決心して、いなくなるのは反則だ」
と、言われたのに、
「だってあんな始まり方で、しかも先生“関係を終らせるのかどうするのか、君が決めろ”とか、他人事みたいに言ったじゃないですか。だから俺、先生は俺の事なんか特に何とも思ってないんだろうし、俺がどういう選択をしようが、どうでもいいんだろうって、思ったんですよ・・・」
と、ぼそぼそ言い返すと、顔をしかめた先生に、
「何を言ってるんだ、俺は君と付き合おうと思ってたから、後はどうするか、君が決めればいいって言ったんじゃないか」
と、答えられて仰天したり ―― そこから始まって、
“最初の時から先生だけ余裕たっぷりだったし、なんか突き放した感じだったし・・・”
と言えば、
“それはこっちの台詞だ。君だって物凄い挑発めいた台詞を淡々とした表情で俺に言ってただろうが”
と返されたり。
“意味が分かりません、そんな、挑発なんてした覚え、全然ありませんよ!”と激しく抗議してみるも、先生は今度は声もなく深いため息をつくし・・・。
なんだか先生の言い分や素振りを見聞きしていると、俺も先生を振り回していたみたいに聞こえる。
そんなのある訳ないし、それに、そもそも出会ってからずぅっと憧れ続けていた先生がこの俺の事を好きになってくれるなんて、天地がひっくり返ったって有り得ないと思い込んでいたのだ。
いや、それどころか先生が俺を追いかけてここまで来てくれたということすら、まだうまく信じられていない。
実際に先生が目の前にいるのだから信じるも信じないもない訳だけど、でも ―― 先生が見ていなければ、思いっきり頬をつねってみたいとさえ思う。
ぶつぶつ言いながら、思いながら、でもコートの陰で繋いだ手の感触が嬉しくて、内心密かに舞い上がったりしながら自宅アパートに着く。
「・・・それにしても、流石にこっちは寒いな」
ドアのロックを外す俺の後ろで、先生が言った。
「ちょっと薄着過ぎるんですよ、先生。それ、真冬の北海道に来る格好じゃないです。見るからに寒そう」
答えながら俺は先生を玄関に残して先に部屋に入り、カーテンを閉めて暖房のスイッチを入れる。
北海道の家の密閉率は高いので、数時間前に一度温めた部屋の温度はそれほど低くはなっていない。
しかし先生が今にも凍り付いてしまいそうな様子だったので(一体いつからあそこに立っていたんだろう?)何か他に出来る事はないかと、俺はコートも脱がないまま部屋中を見回す。
後にして思えば、この考えもしなかった展開に相当パニックしていたんだと思う。
挙動不審ぎみに暫し部屋を見回してから、そうだ、温かい飲み物を作ろう!とキッチンに突進しようとした俺は ―― 後ろから予告もなく抱きしめられて、その場で固まった。
「・・・あの・・・、えー・・・っと、先生・・・、なにか暖かいもの、作りますから・・・」
それから長い事 ―― 余りに長い間先生が無言で俺を抱きしめているので、段々ドキドキしすぎて眩暈までしてきた俺は、言ってみる。
先生はそれを聞いて小さく笑い、
「それより、とにかく少し落ち着けば。自分の家なんだし」
と、言って、俺の身体を反転させて自分の方に向かせた。
そして先生は真剣な表情で俺を見下ろして、言う。
「酷い事を言って、悪かった。本当に。ごめん」
真っ直ぐに俺を見つめてそう言う先生の、低くかすれた声を聞いた俺は笑う。
「先生、さっきから謝りっぱなしですよ」
「・・・そうだったっけ」、と先生は言った。
「はい」、と俺は頷いた。
そう、先生は病院の前で俺に謝ってからずっと、会話の合間合間で謝り通しなのだった。
「・・・そんなに、謝らないで下さい。勝手に全部1人で決めて、思い込んでたのは俺の方です。それに俺だって先生に酷いこと言っちゃいましたし・・・、すみませんでした。本当に、ごめんなさい」
「君は謝らなくていい。君をそこまで追い詰めたのは俺だ。悪いのは俺だ」
と、先生は言った。
その自分を叱り付けるみたいな声を聞いて堪らなくなり、俺は勢い良く顔を上げる。
「そんな事ありません、だって最後の時、俺・・・!」
言いかけた言葉は、顔を上げた瞬間に噛み付くように口付けられた事で途切れた。
それは病院の前でしたキスとは違う激しさを纏ったキスで、無意識の内に後ずさった俺の身体を、先生は背後の壁に押し付けるようにする。
あっと言う間に荒々しさを増してゆくそのキスに驚いて、ちょっと待って下さい。という思いを込めてあがく俺の訴えはあっさりと黙殺され、苦しくて、空気を求めて開いた唇の間から割り込んできた先生の舌で、舌が絡め取られる。
その後もキスに篭められる熱は上がって行き ―― それと比例するように身体、特に足の力が抜けてゆく。
ずるずると壁に沿って崩れ落ちる俺を、先生はそのまま床に押し倒した。
「ち、ちょっと ―― ちょっと先生、な、何するんですか・・・?」
床に押し倒されたのと同時に長かったキスは終ったけれど、そのまま俺に覆いかぶさってくる先生の胸を慌てて両手で押し返しながら、俺は言う。
「何って、君・・・ ―― と、呆れたような口調で言い返しかけた先生は、すぐに面白そうに唇を歪めた ―― ほらね、君のそういう反応が人を挑発してるみたいに見えるんですよ」
「な、なんですかそれっ、そんな、挑発なんて考えすぎ、誤解です・・・って、先生、待って下さい・・・!」
何だかんだと抗議している間にさっさと脱がされてゆこうとするコートの裾を、俺は慌てて掴んで止める。
「ふん、やっぱりそうやって焦らすんだ」
と、先生は俺の手を巧みに押しやりながら言う。
「そ、そうじゃなくって・・・、あの、ちょっと・・・ちょっと落ち着いて・・・先生!聞いてます!?」
「聞いてません、聞こえません」
「そんな、ちょ、待っ・・・やめて下さいってば・・・っ!」
「なんでだよ」
「な、なんでって、1日中仕事して帰ってきたばっかりですし・・・シャワーくらい浴びてきますっ・・・」
「いいよ、そんなの」
「いいよそんなのって、先生は良くても俺は良くな ―― っ、や・・・あっ、嫌だってば、先生・・・!」
「・・・うるさいなぁ、もう」
どんどん脱がされてゆく服を必死で引き止めようと努力しながら、わあわあ騒ぐ俺を真上から覗き込んで、先生は言う。
「もう諦めたらどうなんでしょうね。どんなに抵抗しても200パーセント無駄ですよ、言っておきますが」
断言するように言われるのに、どうして!!と喚きかけた俺の下腹部に、先生は表情を変えず、無言で、熱く張り詰めた塊を強く押し付けた。
一瞬にして全ての言葉を見失い、真っ赤になった俺に先生は、
「ね、無理でしょう」
と、にっこりと笑いかける。
「・・・う・・・、け、けど・・・、あの・・・」
半ば衣服を取り払われた状態の下腹部に押し付けられたものの熱さが、抵抗の言葉を奪ってゆく。
しかしすぐに抵抗をやめる事も出来ずにいる往生際の悪い俺に先生は、
「あと1分以内に俺を納得させるだけの理由を見つけられたら、やめてあげてもいいですよ」
と、妙に優しい声で言う。
でも身体の線を丁寧に辿られたり、はだけさせられた胸元にそっと口付けられたりしていては、まともな言葉なんか出てくる筈もなく ――――
それから少しあとで先生は、
「特に理由が見つからないようですので、このまま続けさせていただきます」
と言い、言いざま、既に溶けかかっている俺の中心部を確かめる様にゆっくりと、中指の腹でなぞった。
結局そうして、なし崩し的に何もかも、全てが終ってしまい・・・先生の腕の中に閉じ込められながら俺は、一日中立ち働いた身体のまま抱かれるなんて(しかも相手が香椎先生・・・)・・・なんだかもう恥も何もないって感じだ・・・。と、思っていた。
その後シャワーを浴び、2人で食事を作りながらも悶々としていた俺だったのだけれど、向かい合って食事をしている最中にふと気になって、
「あの、先生、ところで仕事は大丈夫なんですか?」
と、尋ねてみた。
すると先生は箸を止めて顔をあげ、
「ん・・・?仕事・・・?」
と不思議そうに聞き返してから、微笑む。
「ああ、仕事ね、仕事の事なら大丈夫、全く心配なし」
「・・・そう・・・、なんですか?でもスケジュール空けるの、凄く大変だったでしょう?」
「んんん、それは確かに・・・ちょっと大変だったかな」
「ですよね・・・」
と、俺は申し訳なくてしょんぼりしながら言った。
以前一緒の病院に勤めていて、俺は先生のスケジュールが数ヶ月先まで全て埋まっているのを知っていた。
そのスケジュールをここに来る為に調整するのは、相当大変だったに違いない。
いや、それより何より、そうして取ってくれたお休みが終ったら先生が東京に帰ってしまうのだと思うと ―― 寂しかった。
分かっている、こんなのは俺の我侭だ。
最初に先生に会った時、俺はどうやって先生がここの事を知ったのだろうかと不思議に思った。
でも冷静になってみれば確認するまでもなく、先生は陽介経由でここの事を知ったとしか考えられない。
けれど俺が札幌に発つ間際“俺は一生、あいつを許さねぇ”と真顔で断言していた陽介が、先生に俺の居場所を教えるとは思えなかった。
“思えない”どころか陽介は絶対にここの事を先生に教えたりはしないだろうし、俺の事を身内同様に考えている彼が俺の居場所を尋ねる先生にどういう対応をしたか、容易に想像がつく。
とすれば恐らく、どこかの時点でそれを知った沙紀さんが陽介に内緒で先生と連絡を取って、俺の居場所を教えたのだろう。
そうして色々想像してみればみるほど、申し訳なくて堪らなくなってくる。
先生は何度も謝ってくれて俺は何も悪くないと言ってくれたけれど、そんな事はない、やっぱり俺だって悪かったのだ。
もっと勇気を出してきちんと先生に自分の気持ちを伝えてさえいれば、陽介にあんなに心配をかけたり、先生ほどではないものの忙しくしている沙紀さんに陽介に隠れて先生と連絡を取り合うような真似をさせずにすんだのだ。
先生とだって、北海道と東京に離れるような事にならずに付き合っていけたかもしれない ―― なんて、あそこから俺たちが普通の恋人同士のように付き合ってゆくという図が全く想像出来ないけれど、でも、そういう可能性だってなかった訳じゃない。
俺がほんのちょっとでも勇気を出していれば、きっと。
むろん、俺が再び東京に戻れない事もない。
忙しい先生と遠距離恋愛なんて事実上不可能だろうし、先生と一緒にいたいのなら、それしか選択肢はないだろうとも思う。
しかし ―― いくらなんでもそれはもの凄くいい加減な気がした。
あっちがダメだと思ってこっちに逃げてきて、時間がたって一旦捨ててきた場所が安全であると確認出来た途端に喜び勇んでもといた場所に戻るなんて。
こうなった以上、先生と離れていたくはないけれど、でも・・・ ―― 。
「なぁ、君が今何を考えているか、当てて見ようか?」
ぐるぐると悩んでいる俺に先生は言った。
えっ?と驚いて顔を上げると先生は両手を顎の下で組んだ状態で、面白そうに俺を見ていた。
「じゃあね、君の心が軽くなる告白をしてあげよう」
「・・・心が軽く・・・?何ですか?」
と、聞き返した俺に先生は、
「あのね、実は俺、ここへは仕事を辞めて来たんだ」
と、にこやかに言った・・・ ―――― 。