2 : 漫画みたいな展開
―― 実は俺、ここへは仕事を辞めて来たんだ ――
先生の言葉が耳に届き、鼓膜を震わせ、電気信号として脳に届いて ―― でも俺の脳細胞がその電気信号の内容を解読するのには、相当の時間がかかった。
その間、俺はあんぐりと口を開け、ただただ茫然と先生の顔を眺めていて(多分もの凄いアホ面だったんじゃないかと思う)、先生は静かに激しく混乱する俺を面白いものを見るように眺めていた。
「や、や、やめ・・・、っ、辞めた・・・って、な、何ですかそれ・・・?」
と、俺は長い長い沈黙の後に、たどたどしく聞いた。
「何って、文字通りの意味さ。むろん」
と、先生は何だか本当に、心底楽しそうに答えた。
「だってほら、俺が今更ノコノコとここに来た所で、君にはもう恋人がいるかもしれないって、思ったから」
「・・・そんな・・・、ある訳ないじゃないですか、そんなこと!」
「君としては“ある訳ない”のかもしれないけれど、俺はとてもじゃないがそこまで自信を持てなかったね。1年は長すぎると思ったし、実際」
「そ、それは・・・」
そうか、確かに俺だって先生がとっくに院長先生の娘さんと結婚してるに決まっていると思い込んでいたしな。と思って、俺は言い淀む。
「・・・でも・・・、でもだからって、仕事辞めちゃう事はなかったんじゃ・・・。あの病院、国内では最高って言う位に設備も整ってましたし・・・」
「んんん、しかし実を言うと俺は、君にもし他に誰か好きな人が出来ていたとしたら、例えどんな事をしてでも ―― 世に言うストーカーばりの事をしてでも、俺の方に向き直らせてやろうという固い決意を抱いて東京を出てきたんだ。
東京と札幌に離れていたら、そんなの無理だろう?だから、選択肢は他になかった。ただ君に会うだけなら、もっと、ずっと前にここに来ることが出来た」
などというなんとも危うい台詞を、先生はそれとは似つかわしくない、穏やかな口調で言った。
「・・・ス、ストーカー・・・っ?!」
びっくりした俺は椅子を引いて思わず妙な声を上げてしまい ―― そんな俺を見て先生は笑い、笑いながら、
「冗談だよ、冗談に決まってるじゃないか」
と、言った。
「あ・・・そうですか・・・冗談・・・・・・」
「・・・まぁ、冗談ばっかりでもないんだけど」
「え、ええええっ!?」
「なんてね、本当に冗談だって」
「ちょっと先生・・・からかってるんですか、本気なんですか、どっちなんですか!?」
思わず叫んだ俺に先生は、うーん、秘密。と答えて再びにっこりとした。
秘密って秘密って、秘密ってどういう意味なんだー!と俺がパニックに陥りかける一瞬前に先生は、
「冗談はさておき」
と、がらりと表情を改めて椅子に座りなおした。
「これだけは最初にはっきりと言っておくが、俺が仕事を辞めたのは俺自身がそうしたいと思って決断した事だから、それに関して君が自分を責めたり、責任を感じたりする必要は一切ないからな」
「責任・・・?」
どこから本気でどこまでが冗談なんだ・・・。っていうか先生ってば、東京で接してた時の雰囲気と全然違わないか?こんな冗談とか、人をからかうような事を言う人じゃないと思ってたんだけど・・・。などと内心首をひねりつつ、俺はふいに出てきた“責任”という言葉を繰り返す。
先生は右手の人差し指でテーブルをこつこつと叩きながら目を細める。
「言ってみれば、これは先手のつもりなんだけど」
「先手・・・?」
意味が分からず、馬鹿みたいに先生の言葉を繰り返す俺の目を覗き込んで、先生は唇の端だけで少し笑った。
「あなたの事ですから、放っておくと“自分のせいで先生は仕事を辞めたんだ・・・”とか自分を責め始めて、1人でどんどんドツボに嵌っていくんでしょう。そうなってしまった時の恐ろしさは、今回の一件で嫌というほど学ばせていただいたからね、だから、先手」
ずばりと言われて、俺はぐっと言葉に詰まってしまう。
確かに俺は、状況が落ち着いて色々考え出したら、そういう方向に考えを及ばせていってしまったに違いなかった。
反論出来ないでいる俺を見て、先生はやっぱりね。とでも言いたげに溜息をついてから、
「俺は以前から東京っていう土地に今ひとつ馴染めないものを感じていたから、ちょうどいい機会だったと思ってるんだよ、これは純粋な本音なんだけれど」
と、言った。
「・・・それって、本当ですか・・・?」
「本当です。あなたには今後一切、嘘偽りの類は言いません」
先生は発音ひとつひとつに力を込めて言った。
その言い方は余りにもきっぱりとしていて、反論や疑問を差し挟む余地は見当たらなかった。
それに先生がこっちに来て、俺の側にいてくれるというのなら ―― 何だかまだ、出来すぎた夢みたいに思えなくもないけど ―― これ以上に嬉しい事はないのだ。
だから俺は気を取り直して、違う質問をしてみる。
「・・・じゃあこれから、どうするんですか?」
「そうだなぁ ―― と言って先生は唇を曲げた ―― 今まで働きすぎだったからしばらくはゆっくりするかな、と思わなくもないんだが、いざ長期的に休めるとなると腕が鈍りそうで怖いような気がするし・・・、そう時間を置かず仕事を探すよ。
俺の腕を欲しくない病院なんてないだろうし、その気になれば仕事なんていくらだって見つかるだろう」
自信たっぷりに言いきる先生の、その言葉を聞いて ―― “先生、雰囲気変わったかな?”とは思ったけれど、こういう所は全然変わってないな。と思い ―― そして ―― 俺は先日から勤務先でちょっとした騒ぎになっている一件が、妙な方向に作用しないだろうかと、微かな不安を覚えずにはいられなかった。
そう、俺は知っていたのだ ―― 俺が勤務している病院で以前から、脳外科医が足りない!と外科部長が口癖みたいに言っていたのを。
しかも数週間前、非常勤で勤務していた脳外科医が実家の病院を継ぐ事になったという理由で退職していってしまい、脳外科の医師たちが“今までだって人手不足で大変だったのに、これでは本当にもうやっていけない・・・”と頭を抱えていたのも・・・。
先生と再び同じ病院で働く事になるなんて、そんな漫画みたいな展開、ある訳ない!誰かそうだって言ってくれ!!と俺は祈るように考えていたものの ―― そもそも医者の世界は狭いものだから、仕事を探している香椎先生がその情報を耳にしない筈もなく、仕事を探している先生の話を聞いて病院側が話に飛びつくのも、当然の話だった。
結局、先生が札幌にやってきて一ヶ月も経たないある夜、家に帰ると先生がいて(因みに先生はその間、ホテルと俺の家を行き来して生活していた)、
「来月から君の勤めている病院に勤務する事になった」
と、にこやかに俺に告げたのだった・・・。