Echoes of Love

10 : 情熱的な人

 叩かれる衝撃に備えた俺だったけれど、いつまで経っても予測していた衝撃はやってこなかった。
 ざわめいていた周りもいつの間にか、しんと静まり返っている。

 不思議に思い、そろそろと伏せていた視線を上げると ―― なんとそこには、いつの間にかやって来たのか、振り上げられた美沙子さんの手首を掴んで止めた香椎先生が立っていた。

「・・・例のお話は、とっくの昔にきちんと話がついているはずだったと思いますが、違いますか」
 静かな低い声で、香椎先生は言った。
「でも、私は、裕仁さん・・・」
 と、美沙子さんは呟くように言ったけれど、先生はまるで取り合おうとせずに続ける。
「それはお父様である狭山副院長も了承していると伺っていましたが・・・、どうやらあなたに正確に伝わっていないようですので再度ご説明いたしますと、“後から出てきて”と彼を責めるのはお門違いです。彼は最後ではなく、むしろ一番最初なんですからね」
「・・・は、あ・・・?」
「つまり彼がまずここに来て、その彼を追いかけて、私はここに来たんです。つまりはっきりと申し上げますと、最後なのはあなたなんですよ、美沙子さん」

 そう言って、先生は掴んでいた美沙子さんの手首を離した。
 ぱたりと、その手が重力に従って落ちてゆく。

「あなたは以前私に、どうして“中央”の病院からこっちへ来たのかと訊きましたね。あの時きちんとした答えを返しませんでしたが、つまり答えはこういう事です。理由はただひとつ、彼がここにいたからです」
 そんな・・・。と口の中でぶつぶつと呟く美沙子さんから視線を外した先生は、ゆっくりと顔を巡らせて俺を見下ろし、
「・・・こういう事になるから、早くきちんとしようと言ったんだ。よく分かっただろう」
 と、平坦な声で言った。
「・・・あ、あの・・・えと・・・、す、すみません・・・」
「君の事だから諸々、準備のめどはたっているんだろう。だったら次の休みにはきちんと引っ越してこい。いいな?」
 落ち着いた声音ではあったものの、反論は許さないという強い意志が感じられる声で先生が言い、俺はその静かな迫力に押されるように、無言で頷く。

 そこへ騒動を聞いて駆けつけてきた狭山副院長がうなだれる美沙子さんをどこかに連れて行き、それを見て再び休憩室がざわざわとざわめき出し ―― そんな喧騒のなか香椎先生は、
「これで駄目だったら打つ手はなかった気がするから、まぁ怪我の功名だな」
 と、俺にだけ聞こえるような声で、独り言のように呟いた。

 それを聞いて俺は、そうか、この件について何も言ってくれなかったのは俺がどうするのか、窺っていたのか・・・。と思い ―― つまりこんな大騒動になってしまったのはひとえに俺がいつまでもいつまでも、ぐずぐずぐずぐずと悩んでいた所為なのだと(今更だけど)悟り ―― あらゆる方面に申し訳ない事をしてしまったと、猛省したのだった・・・。

 ―― おまけの後日談。

 言うまでもなく、その午後以降、病院内は俺たちの噂で持ちきりだった。
 みな一様にびっくりしていたのは当然だが、その驚きの方向は俺が考えて、心配していたのとは全く真逆だった。

 みんながまず最初に口々に言っていたのは、
「香椎先生って沈着冷静ってイメージがあったけど、秋元さんを追いかけて北海道まで来るなんて・・・意外に情熱的な人だったんだなぁ」
 などという、俺からしてみればかなり的外れな感想だった。

 香椎先生が情熱的って・・・。
 激しくそぐわない気がするのは・・・俺だけだろうか・・・。

 ただそんな中でただ1人、ちっとも驚いていない人が1人いた。
 そう、梁瀬さんだ。

 彼女は飄々とした言い方で、
「はっきりとした確信はなかったけど、香椎先生ほどの医師が東京からこっちに来るのだっておかしな話だし・・・そこにやっぱり東京から来た秋元さんがいるんだもん。元々秋元さんってなんかワケアリなんだろうな~とも感じてたし、2人の間には何かあるんだろうって考えるのはトーゼン」
 と、言っていた。
 俺の前であれこれと噂話を話して聞かせてくれていたのは、それを察した上でのことだったのだろう。
 しかも梁瀬さんは更に続けて、
「実はアメリカに住んでる私の姉が同性愛者で、そういう雰囲気?みたいなのにアンテナが働くのよね、私。それに恋愛は人それぞれって、実感として思ってるのよ、姉のお陰で」
 などと言ってくれて、同性愛者であるという事実もなんだかそれほど糾弾されたり後ろ指さされたりすることなく、同僚たちには受け入れられてしまった。

 ただやはり不安だったのは、今後の仕事についてだった。
 同僚には受け入れられたとしても、職場と言う大きなカテゴリから見るとこんな事実が知られたらマイナスになるのではないかと不安だったのだ。

 そしてあの騒動の日から数日後、密かに呼ばれた院長室へ向かいながら俺は、自分が辞めるだけで全てが収まるならそうするけど、そう簡単にいくかな・・・。とかなり濃い目のブルーになっていた。
 そして院長室のドアをノックし、それを引き開ける瞬間まで、俺は東京での例の夜と似たり寄ったりの展開が今から始まるのだと半ば信じ込んでいるような状態だった。

 しかし。

 ドアを開けたそこには院長先生と副院長先生(因みに彼らは兄弟なのだ)、そして先に呼ばれてやって来ていたらしい香椎先生も何故か座っていて、俺を見て立ち上がった副院長は真っ先に、
「今回は嫌な思いをさせて申し訳なかった。あの馬鹿娘にはきつく言っておいたし、二度とあんな事はさせない。だからどうか、許してやって欲しい。本当にすまなかった」
 と謝罪の言葉を口にして、頭を下げた。
 想像していた状況とのあまりのギャップに驚いて立ち竦む俺に、香椎先生の横のソファに座るようにという素振りをしながら院長先生が口を開く。
「身内を庇う訳ではないが、姪も悪い子ではないんだ。ただちょっと・・・、思い込んだら周りの状況が見えなくなる所があってねぇ・・・。いや、しかし、弟が言ったように、本当に嫌な思いをさせてしまって悪かった。姪も今は冷静になって反省している事だし、出来れば穏便に済まして欲しいんだが・・・」

 勿論これ以上事を荒立てたりする気などさらさらなかった俺が頷くと、院長と副院長は顔を見合わせ、良かった。と安堵の表情を浮かべて視線を交わしあい、次いで俺たち ―― 俺と、香椎先生だ ―― を見た。

「・・・ところで2人は今後、どうするつもりなのかな?さっき香椎くんから先週末に一緒に暮らし始めたのだと聞いたが、秋元くんは今後もここで働いてもらえるのかな?」
 と、副院長が訊いた。

「・・・ええ、それで問題がないのでしたら、そうさせていただければ嬉しいのですが」
 と、俺は答えた。
 すると再び院長と副院長は顔を見合わせて笑い合う。
「それなら良かった、安心したよ、いやー、実は心配していたんだ。こんな事になってしまって、その所為で辞めてしまわれたら勿体無いからね。男性のカウンセラーは珍しいし、秋元くんが来てくれたおかげで最近は男性患者も増えてきていたところだろう?それだけでなく君は同僚や患者の受けも非常に良かったからねぇ。
 ああもう、取り返しがつかないんじゃないかと心配していたんだが、うんうん、良かった良かった。ほっとした。 ・・・えー、それにしても君たち、同棲するだけでいいのか?まぁ、事情が事情だし入籍するには日本では色々問題があるのかもしれないが・・・そうだ、新婚旅行的な意味合いで、旅行位には行って来たらどうかね」
 と副院長が機関銃のようにまくしたて、それを聞いて院長先生も幾度も頷き、
「そうだね、そういうケジメは大事だからねぇ。お詫びもかねて1週間くらい休みをあげるから、ゆっくりとどこか旅行に行ってくるといい。2人で話し合って、予定を立てておきなさい」
 と、軽やかに手のひらで膝を叩き、にこにこしながら言った。

 それから院長と副院長は“この時期の新婚旅行なら、どこに行くのが良いか”というテーマで、まるで自分たちが旅行に行くのか?というようなノリと勢いで盛り上がっていた。
 俺は全く展開についてゆけず、茫然とソファの上で固まっていたのだけれど、隣に座った先生は終始穏やかで感じの良い微笑みを絶やさずに会話に加わったり、相槌をうったりしていて ―― やっぱり先生って、あらゆる意味で凄い人だよな・・・。と、俺は再認識したのだった・・・。

―――― Fight C Luv 「Echoes of Love」 END.