Echoes of Love

9 : 誰にも渡さない

「どういうつもり、と言われましても・・・。
 あの、とにかく今は仕事中なので、後ほど改めてお伺いしますので・・・」
 と、俺が小声で言いかけたのを、
「ごまかそうとしても、そうはいかないわよ!」
 と、美沙子さんは遮った。
「後ろめたい事をしている自覚があるから、そんな風にコソコソしたがるのよね?ふざけないでよっ!!」
 徐々に金切り声のようになってゆく彼女の声を聞きながら、俺は ―― 俺は、ちらりと周りの様子を見回す。
 外来の最終診療が落ち着く時間帯だったため食堂のテーブルは半分近くが埋まっており、その全員が一体何事かとこちらに注目していた。
 パーテーションで区切られた喫煙所からも騒ぎを聞きつけた人たちが手に煙草を持ったままの状態で出てきて、こちらを窺っている。

 後から考えて、あんな状態でここまで冷静に周りの状況を確認していたなんて、俺、随分余裕があったよな・・・。と思ったけれど、その時はパニックの極みに達していて、かえって冷静になっていたのかも知れない。

 とにかくそんな感じで、みんなの注目を浴びている事を確認して更に頭をグラつかせつつ、俺は逆上の一歩手前、といった風情の美沙子さんに視線を戻した。
 頭に血が上っている彼女に、“俺が仕事を終えてから、どこか外で話しましょう”などと言っても意味はないだろう。
 でもこんな風に休憩所のど真ん中で話す事では絶対にないので、せめて場所だけでも変えられないかと俺は思った。

「・・・あの、それでは、とりあえず出ましょう」
 と、休憩所の出入り口誘導しようと差し伸べた俺の手を、美沙子さんがぴしゃりと払いのけた。
「汚い手で触らないでっ、とにかく私はあなたが汚い行動を改めるって言わない限り、絶対に引かないわよ。
 大体あなた、恥ずかしいとか情けないとか、思わないの ―― 」
「あのさぁ」
 それまで黙っていた梁瀬さんが、ふいにそこで口を挟んでくる。
「さっき秋元さんが言ったように、私たちは仕事中なのよ。今は休憩中だけど、すぐに仕事に戻らなきゃならないの。何の話があるのか知らないけど、こんな所に乱入して来て喚き散らすのはルール違反なんじゃない?」
 きっぱりとそう意見する梁瀬さんを、俺は驚いて見下ろした。
 しかし美沙子さんの方は驚くどころか更に声を荒げて叫ぶ、「誰に向かってものを言ってるの。関係ない人は黙っていてちょうだい!」
「病院で騒がない、人の邪魔をしない、っていうのは常識でしょ。どこの誰であろうが、それは同じよ」
「何よ、それを言うならこの人だって ―― と、美沙子さんは人差し指をあげて、ぴしりと俺を指差した ―― 後から突然出てきて、男のくせに裕仁さんに色目使って人の恋愛話に横槍入れて来てる、とんでもない奴なんだからっ!」
「・・・お言葉ですが、そんな事をした覚えはありません」
 流石にカチンときた俺は、言った。
「覚えがない?どこまで惚ける気なのよ、ほんとに、ふざけた人ね。あんたが休みのたびに裕仁さんを呼び出してちょっかい出してるの、私が知らないとでも思ってるの!?もしかして脅したりとかしてるんじゃないでしょうねっ!?」
 と、美沙子さんははっきりとした大声で先生の名前を連呼し ―― 静まり返っていた休憩所が、一気にざわめく。
 そのざわめきの中、俺はうんざりするのを通り越して、ムカムカしていた。

 とにかくこの1年強の間、何よりも俺が願っていたのは、これ以上先生の迷惑にならないように、先生の足をひっぱらないようにという事だったのだ。
 しがらみが何もない俺のことはどうでもいい。でも仲が悪いのだとしても家族がいて、最後の望みを託しているような患者さんもいる先生の重荷には ―― 例え先生が構わないと言ったとしても ―― 絶対になりたくないと俺は思っていた。
 この世の中をひとりきりで切り拓いてゆく大変さ、そして人の悪意というものがその矛先を定めたときに生じる困難の山の険しさを、先生は絶対に分かっていない。
 その大変さを嫌と言うほど思い知っていた俺は、ああいう羽目に先生を追い込むことだけはしたくないと、ただそれだけを願っていたのだ。

 それなのにこんな話がこんな風に知れ渡ってしまったら、どういう風に尾ひれがついて噂が流される事か、ちょっと考えれば分かりそうなものだ。
 本当に先生の事を思っているのなら、絶対にこんな事はしないだろう。少なくとも俺は、考えもしない。

 それに ―― そう、それに大体、“裕仁さん”って、なんなんだよ!?
 俺は未だにくせで“先生”って呼んじゃって、先生に何度指摘されても照れて彼を名前で呼べなくて、でもいつか名前で呼べるようになれるといい・・・。とか、小さな夢を見てるっていうのに・・・。
 そんな俺の躊躇いをあっさりと突破して、出会って半年もたたないうちに“裕仁さん”呼びするなんて、図々しいにも程がある。ずるいというか、汚いのはどっちなんだというか、正直、かなり、相当、激しく、むかつく。
 相手が女性じゃなければ、手を出してしまったかもしれないと思うくらいだ。
 でも、ここで俺まで逆上したら、取り返しのつかない事になってしまうと思い、俺は何度も大袈裟にならない程度の深呼吸を繰り返し、必死で感情を抑える。

 その後美沙子さんが黙っていてくれたら ―― 黙り続けてくれなくても、あとほんの十秒くらい黙っていてくれれば、俺の努力は成功しただろう。
 それから再び何かを言われても、また冷静な態度を装って、少しでも早く騒動を収めようという努力をし続けられたに違いない。

 しかし美沙子さんは勿論、そんな長い間黙ってはおらず、
「今後裕仁さんから手を引くって約束するなら、許してあげるわ。だから、身の程をわきまえて、私たちの前から消えなさい!
 さぁ、今ここで、今後一切、身の程をわきまえて裕仁さんに手を出さないって約束しなさいよっ!!」
 と言い ―― その命令じみた言葉を聞いた瞬間、俺の中で、ぷつりと何かが切れる音が聞こえた気がした。

「嫌です」、と俺は言った。
「・・・何ですって?」、と美沙子さんは言った。
「嫌ですって、言ったんです」
 と、俺はきっぱりと繰り返す。

 それまで引き気味だった俺が、唐突に強硬な態度になったからだろうか。
 美沙子さんは驚いたように目を見開いて、俺を凝視していた。

「俺がして来たどの行為をあなたが許して下さろうとしているのかは存じませんが、特に何も許して頂かなくて結構です。あなたが先生を好きなのは自由ですが、その自由は俺にだってあなたと同様にあるはずです。
 俺は先生が好きですし ―― ずっと、ずっと、好きでしたし・・・今更誰に何を言われても、それを変える気はありません。絶対に、あなたになんか ―― 誰にだって、先生を渡したりなんかしませんから!」
「・・・な・・・、後から出てきたくせに、なんて図々しいの、この・・・!」
 と、叫びざま、美沙子さんが右手を振り上げる。

 それを見た梁瀬さんなど周りにいた同僚が、“ちょっと、暴力はやめなさいよ・・・!”と口々に言って立ち上がり、俺は反射的に身体に力を入れ、叩かれる衝動に備えた。