1 : 人違い
「俊輔(しゅんすけ)・・・お前、俊輔じゃないか・・・?」
六本木のオフィス街から2、3路地を入った裏通り。
いかにも高級そうなマンションの敷地と道路の狭間で反射的に振り返った男の顔を見て、男に声をかけた志筑稜(しづきりょう)は顔を歪める。
「やっぱり俊輔・・・、お前な、あれから一体どうしてたんだ。俺がどれだけ心配していたか、分かって・・・」
「 ―― 悪いが、人違いだ」
稜の言葉を遮って、男が言った。
思ってもみなかった反応に、稜は半分口を開けたような格好で、その場に立ち尽くす。
そんな稜から冷たく視線を外した男は、振り返ることなくマンションのエントランス内へと姿を消した。
稜と俊輔は、東京都内にある高校在学中に知り合った。
都立有数の進学校として有名であったその高校に首席で入学した稜だったが入学して半年後、中途編入して来た転校生にあっさりとその座を奪われた。
その転校生が辻村俊輔(つじむらしゅんすけ)だ。
最初は悔しくて、見返してやろうと対抗心を燃やしていた稜だった。
だがテストでは毎回毎回ほぼパーフェクトな点数を叩き出し、スポーツも万能、背も高くて顔も良く、それらをひけらかす訳でもない ―― と言うか、俊輔はそういうことにはあまり重きを置いていないように見えた。
授業中は高い頻度で熟睡していて教師に叱られていたし(すみません、と口では謝っていたが全く改めなかった)、そもそも勉強だけの話ではなく、俊輔が何かに必死になる様子は全く見られなかった。
つまり彼がごく自然に行う全ての行動が、自動的に完璧なのだろう。そんな男に張り合おうとしたところで、虚しくなるだけだった。
そう悟った稜は俊輔とはライバルでなく、友人になることにしようと思った。
昔から思い切りと切り替えの早い方で、他の友人たちはからかいの意味を多分に込めて“猪突猛進型”などと稜を評したが、それをここでも実践したのだ。
学級委員という肩書きを振りかざすようにしてあれこれとおせっかいを焼いてくるようになった稜を、俊輔はうざったいという素振りを隠そうともせずにあしらっていた。
だが稜はそんな俊輔のぞんざいな扱いにも全くめげなかった。そんなことでめげて諦めてしまうようなら、友人が口を揃えて“猪突猛進型”などと言うようにはならない。
一匹狼を絵に描いたような学生生活を送っていた俊輔が、自らのエリアに稜が踏み込むのを許すのに、長い時間はかからなかった。
むろん始めのうちは押しの強い稜に押し切られるような形で始まった友情ではあった。
俊輔も内心、
“追い払うのもいい加減面倒になってきたし、まぁ好きにすればいい。そのうち飽きて離れてゆくだろう”
と、考えていた。
しかし寡黙で他人を斜に構えて見るような所のある俊輔と、思ったことは何でも口にして屈託のない稜は、水と油のように見えて意外と気があった。
親友と言えるほどべったりと仲が良いわけではなかったものの高校卒業後は同じ大学に進学し、学部は違ったが1ヶ月と空けずに飲みに行ったりする関係が続いた ―― 大学3年にあがる直前、唐突に俊輔が大学をやめ、住んでいたアパートも引き払い、誰にも何も言わずに姿を消してしまうまでは。
なにをどう考えてみても、あれは俊輔だった。
あれから ―― 俊輔が姿を消してから10年という月日がたっているが、高校から大学途中まで、4年以上彼といたのだ。
幼稚園時代の知り合いとでも言うのであればいざ知らず、その年齢になれば人の顔というのはそうそう大きな変革があろうはずもない。
絶対に、あれは俊輔だ。間違いない。
俺が俊輔と他人を見間違えるわけがない。
「・・・あのさ、志筑。独り言は一人のときに言ってくれないか。傍から見てるとちょっと怖いぞ」
と、声をかけられた稜は、見ていたパソコン画面から隣のデスクの同僚に視線を移す。
「ああ・・・、もしかして声、出てた?」
「自覚ないのか?相変わらずぶっとんでるな。大丈夫かよ、仕事しすぎなんじゃないのか」
「・・・水谷こそ、相変わらず意地が悪いよな。同じ仕事をしてるんだから、今はしすぎる程の仕事なんてないって分かっているくせに」
同期である水谷優斗(みずたにゆうと)とそんな軽口を交わしつつ、時計が正午を回っていたので昼食をとるために立ち上がる。
稜が大学卒業後に入社した新見物産株式会社は、日本ではトップ・クラスの総合商社であった。
入社時に営業部に配属されて3年、高い営業実績と企画の確かさを買われ、会社の花形部署と言われる国際物流部企画営業課に転属して5年が経つ。
その間、実に色々なことがあった。
細々とした悩みは仕方がないが、一番きつかったのは大切な人を相次いでなくしてしまったことだ。
幼い頃からずっと仲良くしていた従兄弟が持病の喘息で亡くなり、
可愛がってくれていた祖父母が相次いで病気になって、次々と息を引き取り、
年の離れた姉が癌を患い、数年にわたる壮絶な闘病生活の末に亡くなってしまい、
追い討ちをかけるように両親が車の事故に巻き込まれ、母は亡くなり、父は未だ病院のベッドの上にいる・・・ ――
そういう出来事が矢継ぎ早に起こった数年間は、相当きつかった。
元来過ぎる程に明るく前向きな稜をして、
“自分は、大切な人をどんどん失ってしまう星の元に生まれたのではないか?”
などと真剣に考えてしまったほどだ。
その負の思考スパイラルからようやく抜け出せたかと思った矢先に起こったのが、あの出来事だ。
名前を呼ばれて振り返り、稜をはっきりと認めたくせに(そうとしか思えない)、平気な顔をして人違いだと言い放った。
屈強そうな男たちを数人後ろに控えさせ、六本木の高級マンションに姿を消した、かつての友人。辻村俊輔・・・ ―― 。
「 ―― で?何をそんなに悩んでるわけ」
会社の近くにあるイタリアン・カフェのランチ・プレートを注文し、出された水を一口飲んでから、水谷が訊く。
「実は先日、六本木で偶然、古い友人に会ったんだけどな・・・何故か思いっきりスルーされてさ」
「・・・それって、向こうは志筑に気が付かなかったとかではなく?」
「いや」
「他人の空似っていう可能性は?」
「それは絶対にない」
グラスの底の部分の形を指先で確かめるようにしながら、稜はきっぱりと言って首を横に振った。