2 : しつこい奴
「俺、思わずそいつの名前を呼んだんだ。そしたら振り返って俺を見た。絶対に彼だった。間違いない」
「・・・うーん・・・。
古い友人って言ったよな。最後に会ったのはいつ頃なんだ?」
上げた右手の中指で、左側のこめかみを掻くようにしながら、水谷が訊いた。
「大学3年にあがる頃だから・・・10年前だな」
出されたランチ・プレートを前にフォークを取り上げながら、稜は答える。
「10年か・・・ずいぶん長いこと会ってなかったんだな。だったら咄嗟に分からなかったんじゃないのか?」
「やっぱりそうなのかな・・・高校時代からの友人で、結構仲が良かったんだけどさ。そいつはあんまり友人の多いほうじゃなかったし、覚えてくれていると思ったんだけど・・・」
そう説明しながら、否応なしに思い出す。
俊輔が突然姿を消した後に彼の行方を探し回っていた時、俊輔の過去を知る数少ない友人の一人が躊躇いがちに言った言葉。
あいつの家庭は結構複雑でさ。父親がいなくて、理由は知らないけど母親は親族縁者全員から縁を切られてるって聞いた。
ずっと水商売しながら俊輔を育ててたって ―― お前、よくあいつを家に招いたりしてたじゃないか。俺が知ってるあいつは、そういうのを本当に嫌がる奴だった。
自分が家族に恵まれていないからか、家族ってものを目の敵にしてるっていうか・・・。自分にないものだけに、ひけらかされているみたいな気分になってしまうのかもしれない。
俺の地元にあいつがいたのは中学の頃、ほんの1、2年とかそのくらいだったけど、その時も夜逃げするみたいに引っ越して行ったよ。
それ以来この大学で偶然再会するまでずっと、あいつに関するちょっとした噂すら聞かなかった。
だからあいつがお前に何も告げずにいなくなっても、俺は全然驚かないよ・・・ ―― 。
確かに多少強引に俊輔を家に連れて行っていたのは事実だっただけに、その言葉は稜にとって衝撃的であった。
楽しそうに笑いながら団欒に混ざっていたように見えたけれど、あれは演技だったのだろうか?
気を遣って、無理矢理楽しそうな振りをしていたのだろうか?
そんな奴じゃないと信じたい気持ちはあった。が、当人が連絡もしてこないだけに、どうしていいものやらさっぱり分からない。
分からないからこそ友人の“自分にないものだけに、ひけらかされているみたいな気分になってしまうんじゃないか”という意見を強く打ち消すことが出来なかった。
やはりあの友人の推察は合っていたのだろうか、と稜はため息混じりに考える。
だから俊輔はあの日、“人違いだ”などと言ったのだろうか・・・?
「そいつの今の連絡先とか、調べられないのか?」
黙り込んでしまった稜に、水谷が言う。
「他の友達とかに当たってみるとかさ。連絡取ってる奴がいるかもしれないじゃないか」
「ああ、うん・・・そうだな。そうしてみるよ」
と、稜は頷いて笑う。
元々ああでもないこうでもないと悩むのは、稜の性に合わないのだ。
あの六本木のマンションが俊輔本人、或いは彼の知り合いの自宅であったとしたら、何度か行ってみれば、また会えるかもしれない。と稜は思った。
全てはもう一度会って見てから考えよう、と。
「あれですね、例の男は」
黒塗りのリンカーン・コンチネンタルの助手席から外を窺った三枝裕次郎(さえぐさゆうじろう)が、後部座席に座る俊輔に言った。
顔を上げて外を見た俊輔は、スモークガラス越しの灰色に染まった風景の向こう、マンションの植え込み脇に立つ稜を見てため息を噛み殺す。
このマンション前で稜を見るのは、もう5、6回目にもなるだろうか。
相変わらず過ぎるほどにしつこい奴だ、と俊輔は思う。
呆れる気持ちが大半だが、社会人になってあの一本気さを失っていないのはある意味賞賛に値するかもしれない、とも思う。
「打ち合わせ通りに進めて、よろしいのですね」
マンション前に立つ稜の姿を観察するように見ながら、三枝が確認する。
「ああ」
と、俊輔は言った。
頷いた三枝がドアを開けて車外に出て行き、数秒の間を空けて滑るように車が発進する。
「・・・あれは既にストーカーの域ですね。万一三枝で手に負えないようなら、通報しましょう」
俊輔の隣に座って2人のやり取りを黙って聞いていた永山豪(ながやまごう)が、稜に近づいてゆく三枝の姿を首を曲げて確認しながら呟く。
後半の冗談めかした口調に、俊輔は苦笑した。
「ヤクザが警察に助けを求めようって言うのか?」
「合法的に公僕を利用出来る、絶好の機会じゃないですか。笑いも取れて、一石二鳥だ」
永山はにやりと笑い、足を組みかえる。
「でもまぁ、万一なんて考える必要はないでしょう。三枝が出るんですから」
「・・・そうだな」
と、俊輔は言い、そうだといいけどな ―― と、内心だけで続けた。
無論、うまく行けばそれに越したことはない。
だが稜が一度心に持った決心を後から覆させるのがどれだけ難しいか、俊輔は身をもって知ってもいたのだ。