45 : スカーレットの指南
「動くな・・・!」
制止の声に続けて、稜は言った。
「・・・なんだ、それ」
と、俊輔は言った。
「まさか次の台詞は、手をあげろとか有り金を全部出せとか言うんじゃないだろうな」
「うるさい・・・」
頑なに俊輔から顔を逸らしたまま、稜が言う。
「とにかく・・・、ちょっと、暫く、動くな」
「・・・“とにかく、ちょっと、暫く”とか言われてもな。
あのさ、それは一体、どのくらいの間の話なんだよ?目安的なものを教えてもらえると有り難いんだが」
稜の様子を暫し黙って見下ろしていた俊輔が、訊ねる。
「・・・っ、い、いいから・・・、ちょっと、黙ってろ・・・!」
俊輔が口を利く、そんな些細な振動すら鋭い快楽に変換されているのが表面に表れてしまわないよう、必死の努力をしながら、稜は答える。
「しかしな、こういうのを生殺しって言うんだと思うぞ。もしかしてお前、そういう趣味なのか?放置プレイみたいなのが?」
「も・・・、うるさい・・・!暫く、喋るな・・・!」
会話をする際の微細な振動すら辛そうな稜の状態を分かっていて、俊輔は面白がってすらいるのだったが ―― 普段であればいとも簡単に見抜けることですら、今の稜には分からない。
「・・・っ、ぁ・・・!」
ふいに俊輔がベッドサイド・テーブル上に置かれた時計に手を伸ばし、その動きに稜の身体が大袈裟な程に波打つ。
それを身体の下に感じた俊輔は密かに笑いを噛み殺し、引き寄せた時計の針を確認する。
「“ちょっと”とか“暫く”とか大雑把なことを言われても、俺としてもきついんだよ。
だから、時間を区切らせてもらう」
「・・・な・・・」
「今から3分間。その間は、黙って待ってやる」
「・・・っ、カ、カップラーメンかよ・・・!」
「3分に異論があるなら、2分でも構わない」
「・・・・・・。」
「ああでも、時間内に俺が納得できる理由を上げられるのなら、時間は伸ばしてやるよ」
どこまでも尊大に言った俊輔は言葉通り、そこでぴたりと口を閉ざした。
同時に呼吸すら止めているのではないかというくらい、身動き一つしない。
だがそうして俊輔が黙っていればいるだけ、動かなければ動かないだけ、稜の感覚の全ては、深く繋がり合っている部分に集中していってしまう。
何とかして、強引にでも、そこから意識を外そうと稜は試みてみた。
だがほんの一瞬すら、そこから沸き上がる感覚 ――――
深く埋め込まれた俊輔自身の脈動やら、
自身の内部がそれを包み込むやり方やら、
更に深く俊輔を誘い込もうとする自分の蠢きやら、
それらの淫らな、淫らすぎる感覚から、目を逸らすことが出来ない。
いや、目を逸らすどころか、それらの感覚が沈黙によって、どんどん淫らさを増してゆく気すらした。
「 ―― はい、時間切れ」
本当に予告した時間が経過したのかどうなのかは分からないが(稜には随分とあっという間のように思えた)、やがて俊輔が言い、引き寄せた時計をベッドサイド・テーブルに戻す。
そして稜が抗議と懇願の入り交じった声を上げるより先に、
「もういいから、無駄な抵抗はやめて狂うくらいに感じてろ」
と言い放ち、言いざま稜の腰を強く捉え、その最奥を激しく抉った。
「・・・重い・・・」
嵐のような濃密な時間が過ぎ去り、静寂が訪れて暫く後、稜が限りなくぼんやりとした声で言った。
達したそのままの格好で稜に覆い被さっていた俊輔は小さく笑い、稜の唇をもう一度激しく奪ってから身体を離す。
「 ―― ん、ぁ・・・っ」
身体を離す瞬間、稜が上げたその声を聞いた俊輔は呆れたような顔をし、
「あのな、お前、本当にその声だけは何とかしろ。際限がなくなる」
と、言った。
「・・・お前がこんなに性格の悪い奴だとは、思いもしなかった」
恨めしそうに俊輔を睨み、稜が言う。
「俺もお前がこんなに感じやすいとは、思いもしなかった」
稜の怒ったような視線を気にするどころか笑って受け流しながら、俊輔が言う。
「そんなことはない・・・!」
「・・・何が“そんなことはない”んだよ、ついさっきまでの自分のあの反応ぶりを棚に上げる気か?」
にやにやと笑いながら俊輔が指摘し、稜は当然ながら反論出来ない。
“そんなことはない”というのは決して嘘ではなかった。
ここまで乱れた経験など、本当に、ただの一度もないのだ。
しかしそうかといって、俊輔にだけこうなのだなどとは口が裂けても言えないし、言ってやる気もさらさらなかった。
だから稜は笑う俊輔から冷たく視線を外して、身体を起こす。
「どこに行くんだ?」
小さくあくびをしながら、俊輔が訊いた。
「帰るんだよ。明日仕事なんだって、言っただろう」
ぶっきらぼうに、稜は答えた。
「明日の朝、送っていってやるよ」
「・・・下にいる人に言えば、何時でも送ってくれるって聞いたけど」
「ああ、まぁ、それはそうだけどな・・・、でもとにかく、今日は泊まっていけ」
性懲りもなく俊輔が命令口調で言うのを聞いてむっとした稜は、じろりと俊輔を見やってから無言で立ち上がる。
そしてそのまま寝室を出て、バスルームへ向かう。
追いかけてくるのではないかと一抹の不安を覚えていた稜だったが、予想に反して俊輔は追っては来なかった。
手早くシャワーを浴び、少々迷ってから置いてあったバスローブを身につけてバスルームを出た稜は、そっと寝室を覗き込む。
ドアを開く際に小さな金属音がしてしまったのだが、俊輔は身動きひとつしない。
どうやら彼は既に、ぐっすりと眠っているようだった。
そういえばこいつは昔から、酷く寝付きのいい男だった、と稜は懐かしく思い返す。
始業のチャイムと殆ど同時に垂直落下するように眠りにつく俊輔を見ていて、全く見事なものだと感心したものだ。
あれから14年あまり ―― 当たり前だがあの頃、俊輔とこんなことになろうとは、夢にも思わなかった。
高名な占い師に今の状況を予言されても、下らない作り話をするものだと、笑い飛ばしたに違いない。
そして恐らくそれは、俊輔も同じだろうという気がする。
つらつらとそんなことを考えつつ15分ばかり眠る俊輔を眺めてから、稜は音がしないよう静かに寝室のドアを閉め、リビングの大きなガラス戸越しに外の景色を眺める。
“こんな選択をしたことを、後々後悔するとは思わないか”
永山は最後に、そう尋ねた。
もちろん、後悔はするだろう。
永山に答えたように、あと数時間の後でないにしても、いつか、きっと ―― 想像もしないくらいに強く、激しく。
しかし、と稜は思う。
遠いのか近いのかは分からないが、将来後悔したその瞬間今日に戻れたとして、自分は今と違う選択をするだろうか。
多分自分は別の選択はしないだろう。そんな気がした。
いや、そこには“多分”とか、“気がした”などという予測的なものではなく、ほぼ120パーセントの確率で、何がどうなろうと、何度やり直そうと、自分は今日のこの選択をし続けるに違いないという、確信的な思いがあった。
そうだとしたら ―― 果たしてそれは、後悔と言えるのだろうか?
未来ではなく、過去にすら微塵も教訓を与えない後悔など、きっと純粋な意味での後悔とは言わないのではないか。
会おうと思えば会えるのに、会えない人が、稜にはいた。
姉の産んだ、2人の子供。姉の元夫は姉の死後1年ほどで再婚をした。
再婚をして暫くしてから、彼は少し申し訳なさそうに稜に向かって言った。
子供たちは漸く母の死を忘れ、再婚相手に慣れて来た所だ。だから落ち着くまでは子供たちと会わないでくれないだろうか。当分の間、そっとしておいてくれないだろうか・・・ ――――
彼らがいるのは後悔よりも、死よりも、遥かに遠く、手の届かない場所だ。
年齢を重ねると、そういう複雑な場所が出来たりする。
そう、自分は俊輔の存在を、その場所に追いやってしまうことが出来なかったのだ。
きっと、もうこれ以上、そういう相手や場所を増やしたくなかったのだ。
そこに思い至った稜は軽く息をつき、窓辺を離れた。
そして忍び込むように入った寝室で眠る俊輔の横に、そっと身体を滑り込ませる。
稜の気配に、一瞬目を覚ましたのか、それとも無意識なのか。
それは定かでないが、目を閉じたままの俊輔の腕が、稜の身体に回される。
人のいなかったシーツの冷たさと、俊輔の身体のぬくもりと。
それらが身体の半分ずつをじわじわと侵食してゆくのを、稜は黙って感じていた。
やがてそこに、眠りの気配が割り込んでくる。
考えなければならないことは沢山ある気がしたが、とにかく今は眠ろうと、稜は思った。
明日考えよう、タラで、と言ったのは、スカーレット・オハラだ。
彼女が指南している通り、明日の事は明日考えればいい。
そう思った稜は、ゆっくりと目を閉じる。
そしてつかの間の、しかし深い眠りの世界へと、その身を沈めた。
―――― NIGHT TRIPPER Act.1 END.
to be continued Act.2 ...