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―― 週末の、新宿。
花金などという言葉が死語になり果てて久しいが、週末の新宿は、夜の11時を過ぎても人で溢れ返っている。
“眠らない街”という別名通り、その街の人いきれは、時折足を止めながらでないと行きたい方向に進めない程だった。
そんな雑踏の中に、サッカー好きの同僚に誘われて西武新宿駅近くのサッカー・バーに寄り、帰途につく稜の姿があった。
稜自身、サッカーという競技には、飛行中の旅客機から見る日付変更線に対するのと同程度の興味しか抱けないのだったが ―― こういう集まりに参加することも、職場における人付き合いの一環なのだ。
結局その日稜は、
“サッカーっていう球技は他の球技(ゴルフ、バスケット、等々)に比べて、ボールとゴールのバランスがおかしくないか?どう考えてもゴールが大きすぎるだろ、あれ”
という、毒にも薬にもならないような感想を抱きつつ、店を後にした。
同僚たちが興奮気味に話す試合結果やその攻撃方法についての話に相槌をうちつつ、長い長い西武新宿駅の駅舎ビル前を通り抜ける。
そうしてそのままJR新宿駅の東口に向かおうと、靖国通りを渡ろうとした ―― その時。
稜は唐突に、足を止めた。
言いかけていた言葉も同時に途切れ、1、2歩、先に歩みを進めた同僚たちが一斉に振り返る。
「 ―― おい志筑。どうしたんだよ、突然?」
と、水谷優斗が言った。
「ああ、うん・・・、ちょっと・・・」
と、稜は曖昧な答えを返し、さりげなく身体をずらして自分の姿が『向こう』から見えないよう、同僚の身体の影に身を隠す。
稜が見られる事を快しとしなかった、その『向こう』には、20人前後の男女の集団があった。
男性たちはともかく、そこにいる女性たちは、今時珍しい“いかにも水商売の女”というような格好をしていた。
どこまで布を節約出来るかに挑戦しているのか?と問いかけたくなるような露出度の高い服、けばけばしく派手なメイク。
ある程度距離はあったが、それでも彼女たちからは、濃厚な香水の匂いが漂ってきそうだった。
そしてそんな彼らの中心に立ち、どの男たちよりも多くの女性に囲まれている背の高い男。
それが誰あろう、俊輔だったのだ。
稜の見ている前で、俊輔の腕に縋りついていた女のうちの一人が、俊輔の腕を幾度か小さく引いた。
口元に微笑を浮かべた俊輔が長身を屈め、その耳に唇を寄せた女が何事かを囁きかける。
俊輔の口元に浮かぶ笑みが深くなり、女がどんな内容の言葉を口にしたか、聞かないまでも想像がついた。
その証拠に女は、もののついで、とばかりに俊輔に口づけようとし ―― 更に笑った俊輔が、唇が触れ合うギリギリのところを見計らうように身を起こす。
周りから嬌声が上がり、キスをし損ねて頬を膨らませた女が、両手で俊輔の手を持ち上げた。
そうして持ち上げた俊輔の腕を、女はまるで肩を抱かれているような格好に持ってゆく。
そして俊輔は稜の視界から消えるまで、その手を下ろそうとはしなかった・・・ ―― 。
「お前、今日はこっちに来るって言ってなかったか?」
土曜日の夕方過ぎ、電話をかけてきた俊輔が第一声、そう訊いた。
それに対して稜が答えようとしなかったので、電話線には沈黙が満ちる。
「・・・おい、稜?聞いているのか?」
やがて訝しげに、俊輔が言った。
「聞いてる」
限りなく抑揚のない声で、稜が言った。
「・・・どうかしたのか?」
明らかにいつもと違う稜の様子に内心困惑しながら、俊輔が訊いた。
「別にどうもしない。今週末は急用が入ったんだ」
棒読みに近い口調で、稜が答えた。
ふぅん・・・。と言いながら、俊輔は目まぐるしく考える。
自分のここ最近の言動に、何かまずいところはなかっただろうか?と。
だがいくら考えてみても、稜の不機嫌の理由になりそうな点は思い当たらない。
いや、正直に言って電話線の向こうにいる稜が不機嫌であるのかどうかすら、俊輔には判断がつかなかった。
機嫌が良い訳ではないのは間違いないのだが、不機嫌というのとも違う気がする。
確かに稜は普段でも、どことなく不機嫌そうな態度で俊輔に接する場合が多い。
しかし大体の場合においてそれは表面だけのものであることが多かったし、本当に機嫌の悪い時、そこにはそれなりに筋の通った理由があった。
そして不機嫌に見えるのが不機嫌なのではなく、照れ隠しである場合も、実は多かった。
不機嫌である場合、その理由は直近の自分の言動を思い返してみれば判明したので、取り成すなり謝るなりしておけば良かった。
照れ隠しである場合、内心面白くその表情を観察しつつ放っておいたり、からかったりしていればそれで良かった。
だが今回ばかりは、何度考えてみても不機嫌の理由が思い当たらない。
そもそも一昨日の夜に話した際、稜の様子に変わったところは全くなかったので ―― 解析しようにも、余りにもデータが少なすぎるのだ。
「・・・何か、あったのか?」
探るような声で、俊輔が訊いた。
「別に何もない」
平面的な声のまま、稜が答えた。
「・・・とてもそうは思えないんだが」
「そうか」
「ああ、どこからどう見てもな」
「ふぅん、そうかな。気のせいだろ」
と、稜は言う。
「でも人の裏に何かあると思うのは、自分に後ろ暗いところがあるからだって、よく言うよな」
「 ―― なんだ、それは」
唐突に意味の分からない指摘を受けた俊輔は、驚いて言った。
「別に何でもない」
先ほどと全く同じ口調で同じような言葉を、稜は繰り返す。
“とりつく島もない”というのは、このときの稜の為にあるような言葉だと、俊輔は思う。
つやつやつるつるとした、何の凹みも凸みもない白い壁を登ろうとしているような気がした。
「 ―― 他に話はあるのか」
黙り込んだ俊輔に、電話線の向こうにいる稜が訊いた。
「・・・いや・・・、特にない・・・と、思う」
喉奥に言葉が張り付いてしまいそうになるのを引き剥がしつつ、俊輔が答えた。
「それなら、切るぞ」
と、稜が言い、
「ああ、分かった ―― じゃあまた・・・」
と、混乱したままの俊輔が言ったのとほとんど同時に、がしゃんと通話は断ち切られてしまう。
俊輔は暫し呆然として、手にした受話器を見詰めていた。
一体何が起こっているのか、さっぱり分からない。
意味が分からなすぎて、いつものように強引な駆け引きに出ることも出来なかった。
出来ることなら誰でもいいから電話をかけてきて、事の次第を説明してくれないだろうかと俊輔は思ったが ―― 電話は息絶えてしまったかのように沈黙し続け、うんともすんとも言わない。
そんな俊輔と同様に稜もまた、電話のフックに手をかけたままの状態で、沈黙する電話を見下ろしていた。
そして自ら断ち切った電話回線に向かって、
「・・・なんで今日に限って、そんなにあっさりしてるんだよ。普段ならお前、強引に迎えに来るじゃないか」
と、文句を言っていた。
だがむろん神ならぬ、或いはテレパシーの能力を取得している訳ではない俊輔にその言葉が届く筈もなく ―― ただ静かに、淡々と、夜は更けてゆくのだった。