:: 2 ::
稜の様子のあまりの奇妙さに、何となく連絡をしそびれて数日。
考えてみればみるほど、あの時の稜の態度は普段の不機嫌さとは方向性が違っていたと、俊輔は思う。
普段の不機嫌さと少しでも方向性が似ているのであれば、会いに行ってしまおうとも思える。
だが、奇妙さが余りに奇妙すぎたので、どうにもこうにも思い切りがつかないのだ。
それに訳が分からないまま会いに行っても、稜は更に嫌がる気もする・・・ ―― 。
と、そこまで考えたところで俊輔は自嘲する ―― おいおい、何なんだよこのラヴェルのボレロ的な思考は?と。
先日から、思考にまるで発展性がない。堂々巡りをしている。
本人がいないところでああでもないこうでもないと考えていても、意味などありはしないのだ。
稜の怒りの火に油を注ぐ結果になろうと、会わなければどうにもならないじゃないか?
どうも俺は、稜に関することになると様々な意味合いにおいて、判断力や自制心に狂いが生じるよな・・・。
と、三枝などに言わせれば、
そんなことに今更気付かれたのですか?
などと言われそうなことを考えた俊輔が、稜に連絡を入れようとスーツの胸元に入れた携帯電話に手をのばした時 ――――
「辻村さん・・・ですよね?」
と、かけられた声に俊輔が振り向いたそこに立っていたのは、稜のかつての婚約者、木下真由だった。
「ええと、一度ご挨拶させていただいたことがあるんです。西新宿のレストランで・・・あの、私が稜と一緒に食事をしていたところに、偶然辻村さんがいらして」
振り返ったまま動きを止めた俊輔を見上げた真由が、慌てた風に説明する。
「・・・もちろん、覚えていますよ。木下さん」
と言って俊輔が微笑むと、ほっとした様子で真由も微笑んだ。
「・・・辻村さんは稜のご友人なんですよね。最近、稜と会われましたか?」
なにやら話をしたそうな様子を察した俊輔が促して入った喫茶店で、開口一番、真由が言った。
真由が俊輔に声をかけた瞬間にさりげなく姿を消していた永山が、少し後でやって来て近くのテーブルに座ったのだが、真由はそれには気付かないようだった。
「稜とは1週間ほど前に会いましたが ―― どうしてです?」
と、俊輔が言った。
「ごめんなさい、突然変な質問をして」
小さく唇を噛んで目を伏せ、真由が言った。
「私たち、婚約を解消したんです。それは稜からお聞きになっていらっしゃいますか?」
少し間をあけて俊輔が頷くのを見てから、真由は続ける。
「別にしつこくしたりする気はないんです。こういうのって、お互いのどちらかの気持ちがなくなったら、もう片方がどんなに頑張っても仕方ないっていうことも、頭では分かっているんです。
でも ―― 実は今週末、稜と会うことになっていて」
「・・・なるほど」
「あからさまな期待をしているつもりはありません。でも、全く期待しないのも無理で・・・こういうの、おかしいと思われますか?」
「・・・いえ、それは当然でしょうね」
「・・・ですから・・・、もし辻村さんがご存じで、私に教えてもいいと思われるなら、教えていただきたいんです。
最後に会ったとき、稜は私に気になって仕方がない人がいるんだと言っていました。辻村さんはその方のことを、稜から聞かれていらっしゃいますか?」
「・・・さぁ・・・、どうだろう」
「・・・そう、ですよね・・・、やっぱりそんなの、勝手に教えたり出来ないですよね」
しょんぼりとため息をついて、真由は言った。
「いや、そういう問題じゃなく、あいつからその手の話を聞いたことが、一度もないのでね」
と、俊輔は言った。
嘘ではない、稜が俊輔について ―― なのだろう、タイミング的に ―― そんな風に人に言っていたなどと、とても信じられないくらいだ。
と、いうかむしろ、それはどう考えても自分のことを指しているとは思えなかった。
「一度も・・・?」、と真由が訊く。
「ええ、一切」、と俊輔が答える。
返答を聞いた真由が、何も言わずに笑った。
その笑いはを見た俊輔はどうも、自分が馬鹿にされているような気分になったが ―― それは気のせいとか、考えすぎなのだろう、・・・たぶん。
「分かりました。お時間をとらせてしまって、すみませんでした」
と、真由は申し訳なさそうに言った。
「・・・いや、それは気にしなくていい」
と、俊輔は静かに言った。
それから2人はそれぞれ、黙って目の前に置かれた紅茶とコーヒーに口を付けて示し合わせたように席を立ち ―― 別れ際に真由は、
「とにかく、頑張ってみます。私なりに」
と、強い意志を漲らせた微笑みと共にまっすぐに俊輔を見上げて、言った。
これは明らかに、宣戦布告だな。と俊輔は思った ―― 例え本人に、その気がないのだとしても。
「お前、今週末は、こっちに来い」
5日ぶりに電話をかけてきた俊輔に、電話に出た瞬間そう言われた稜は、ため息をつく。
この男のこういった命令口調にはもう慣れた ―― というか半ば諦めかけていた。
言っても仕方ないのも分かっていたので、最近では直接文句を言う気も失せ果てている。
だが、聞く度にもう少し何とかならないのか?と反射的に思ってしまうのはどうしようもなかった。
「・・・じゃあ、日曜に行くよ」
ため息を飲み込んで、稜が言う。
「土曜から来いよ」
引き続き命令口調で、俊輔が言う。
稜は黙った ―― そう、土曜日は、真由と会うことになっているのだ。
実は真由とは一時、一緒に暮らしていた時期があった。
事情があって結婚前に真由が実家に帰り、稜は経堂のマンションに戻った。
そして結局、そのまま婚約解消することになった訳だが ―― 一緒に借りていたマンションに忘れて来た荷物や、部屋の解約の問題があるので一度会いたいと言われ、会うことを了解したのだ。
確かに真由と会う約束をしたとき、俊輔に言うべきだろうかとは、少し考えた。
が、そう考えた瞬間に思い出したのが、先週末に目にした光景の一部始終だ。
女の言葉に耳を貸すために身体を屈めるやり方やら、
耳に口付けられるようにして語りかけられる言葉に浮かべた笑いやら、
触れ合いそうになるまで近付けた唇を離す際の物慣れた様子やら、
女の肩に置いた手に込められた ―― ように見えた ―― 力の雰囲気やら・・・
それらを思い返したとき、こういうことを律儀に考えている自分が馬鹿らしくなった。
真由と会う理由は、婚約時代の事後処理をする為だけであって、そこに他意は何もない。
それをわざわざ報告する必要はないだろうと思った。
「 ―― 悪いが土曜は先約がある」
再び先週末の光景を思い出して、心を頑なにした稜が言う。
「だからそっちには行けない。日曜でもいいだろう」
直ぐにいつもの尊大な言い方で言い返してくるだろうと思ったので、多少厳しい口調を作って稜は言ったのだが ―― 予想に反して、俊輔は黙り込んでしまう。
余りにも普段と違うその様子に、今度は稜が困惑する番だった。
暫く相手の(この場合は俊輔の)反応を待ってみた稜だったが、反応はまるでない。
流石に心配になった稜が沈黙を破って、どうしたんだ?と訊ねようとした瞬間、
「分かった。それでいい」
と、俊輔は言った。
そして思わぬその返答に呆然と言葉を失う稜を置き去りにして、通話はそこで、ぷつりと切れた。