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「・・・お前・・・、一体どうやってここへ入ってきた?」
驚きのあまり半分口をあけたような状態で稜を見上げていた俊輔が、たどたどしい口調で訊ねる。
そんな俊輔を暫くの間、稜は黙って見下ろしていた。
・・・お前は本当に、どれだけ俺を怒らせたら気が済むんだ?
確かに今回真由と会うことを言わなかったのは、俺が(少しは)悪かったかもしれない。
しかしな、彼女と会ったくらいで俺の気持ちが揺らぐんじゃないかと真剣に心配したり不安になるなんて、実に下らない。
なぁ、お前は本当に、本気で、そんなことを考えたのか?
俺が彼女と会ったら、迷うかもしれないって?
本当に、ほんの少しでも、そんな心配をしたのか?
もし本当にそうだったのならそれは裏を返せば何より俺を、この俺を馬鹿にしていることになるよな。
大元の、一番重要なところで俺を信用していない ―― この際だからはっきり言っておくが、俺はそういう風に自分を軽く見られるのが死ぬほど嫌いなんだよ。
何が元に戻っても仕方ない、だ。人を馬鹿にするにも程がある。
いいか、今更そんなことで迷ったり、心が揺れるくらいなら、最初からお前のところになんか来なかった。
絶対に、お前とこんなことになったりしなかった・・・ ――――
と、言ってやるつもりだった ―― 当初の予定では。
しかし本当に、心底驚いた風の俊輔の顔を見ていると、怒りのボルテージがぼそぼそと萎えてゆく。
だから稜は文句を言う代わりに、
「玄関以外の、どこからこの部屋に入れるって言うんだ。背中から羽が生えて、窓から飛び込んできたとでも思うのか」
と、意地悪く返して俊輔の手からバカラのグラスを奪い取り、30センチばかり間をあけて俊輔の隣に腰を下ろす。
そういう意味じゃないんだ、と俊輔は思う ―― 訪問者が誰であろうと俊輔の部屋に他人が来るときには、下にいる舎弟から必ず事前に連絡が入ることになっているのだ。
だが今回、その連絡が入らなかった。
今日下には、相良がいるはずだ。彼がこういった取り決めを失念したり勝手に省略したことは、今までに一度もなかった。
一体どうなっているんだと、内心激しく首を傾げた俊輔だった。
が、それは口にせずに違う質問をする、「お前、それ、つけたまま行ったのか?」
それ、と言って俊輔が視線を投げたのは、稜の左手の薬指にはめられたシンプルな指輪だった。
「“いつもつけておけ、絶対外すな”って、お前が言ったんだろうが」
グラスに2センチばかり残っていたウィスキーを一気に飲み干した稜が答え、空になったグラスを音高くテーブルに置いた。
そして刺し抉るような鋭い視線で、俊輔を睨みつける。
「 ―― お前、ふざけるのも大概にしろ」
稜の視線に満ちる痛いほどの怒りの意味を瞬時に察し、さしもの俊輔も居たたまれなかったのだろう。
つと稜から顔を逸らした俊輔は、
「・・・すみません」
と、いつになく神妙な口調で謝った。
稜は無言でそんな俊輔から視線を外して胸の前で腕を組み、後頭部をソファの背に預けて天井を見上げる。
時計の針が正確に時を刻んでゆく、その音だけがやけに大きく響く沈黙の中 ―― やがて俊輔の手が、さりげなく稜へと伸びてゆく。
「 ―― 触るな」
俊輔の指が肘に触れたのと同時に、稜が言った。
が、もちろんそんな言葉に萎縮する俊輔ではなく、稜の腕を掴む俊輔の手には更なる力が籠められる。
「触るなと言ってる。聞こえないのか」
天井を睨む視線はそのままに、腕を振って俊輔の手を外そうと試みながら、稜が繰り返す。
「聞こえてる。でも俺は触りたい」
太陽は東から昇って西へ沈むといった不変的事実を口にする時のような口調で、俊輔が言った。
「・・・お前と話していると、疲れる」
と、稜が盛大なため息と共に呟く。
「俺はお前と話していると、楽しいよ」
と、俊輔は言って笑い、笑いながら、30センチの間を一気にないものにする。
「・・・こういうところでするのは好きじゃないって、何度も言ってるだろう」
引き寄せられて、そのまま押し倒されそうになるのに抵抗してみせながら、稜が言った。
「同感だね。好きじゃないにもう一票」
稜の首筋を唇で弄りながら、俊輔が言った。
「でももう手遅れだ。今更寝室なんて遠くまで、行けたもんじゃない」
「何を言っているんだ、たったの10歩くらいだぞ」
「“たった10歩”ね、今は10キロでも同じことだ」
「・・・大袈裟すぎだ、ったく、どこまでも胡散臭い奴・・・」
心底うんざりという風に顔を顰めた稜を、俊輔の腕が更に強く引き寄せる。
そのまま口付けようとした俊輔の鎖骨あたりに、唐突に強く、稜の手が突かれる。
その力は明らかに、普段の抵抗の際のそれとは毛色が違った。
ぴたりと動きを止めて見下ろしてくる俊輔を、稜は長いこと、睨むように見上げていた。
が、やがて ―― やがて、ゆっくりと、ゆっくりと、俊輔の胸に突かれた手が上へと滑ってゆく。
長い時間をかけて首筋を撫で上げた稜の手が俊輔の頬に触れ、次いでそれと同様の時間をかけて、唇が近付けられてゆく。
じれったいような速度ではあるが着実に距離を縮めていった、その動きが途中、唐突に止まる。
そこには見えない境界線が引かれていた ―― おそらくは無意識のうちに、俊輔が引いた一線。
その存在を知っているのは、稜と、そしてそこを越えることを許されなかった、あの女だけだ。
長いこと息を詰めて俊輔の動きを伺うように動かなかった稜が、やがて思い切るように瞼を伏せ、これまでと同じゆっくりとした速度で、その線を越える。
何事かを察しているのだろうか、微動だにしない俊輔の唇に、稜のそれが、そっと触れた。
羽で撫でるような軽い口付けの主導権が徐々に俊輔へと移るのと比例して、口付けは唇の輪郭を崩すような、貪りあうものになってゆく。
そうして一気に深くなってゆく口付けに止めようもなく呼吸を乱しながら、稜は思う ――――
願わくば ―― せめてもう暫くの間は、この境界線を越えることを許されるのは自分だけであって欲しい。
そして ―― そう、そして何よりも、許される限り、そう願い続けられる自分でいられればいい・・・ ―― 。
決して、永遠に、口に出しはしないであろう、その願い。
それらを心の奥底の引き出しにしまいこんだ稜は、激しさを増してゆく愛撫に耐えるように、そっと、目を閉じた。
―――― NIGHT TRIPPER番外編 Slow Love,Slow Kiss END.