Slow Love,Slow Kiss

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「・・・それで、永山さんは俺がどうすると思うんですか?」
 店内に小さく流されているBGMを3曲分聞き流す程度の間を空けてから、稜が訊ねる。
「そんなことは分からねぇよ」
 長いこと眺めていたエスプレッソに口を付けながら、永山は肩をすくめる。
「どうしてです?さっきみたいに、すらすら当てられないんですか?」
 稜が言うと、永山は苦笑して首を横に振る。

「過去は絶対に変えられないもので、その人間がひとつひとつ、時間をかけて積み上げてきたものだ。俺はそれを見ているに過ぎない。言ってみれば、木の年輪を見ているようなもんさ。
 だが未来は分からない。未来はその時の状況や気分や体調次第で、いくらでも変わってくるからな。
 そういうのをも全て見越して未来を見られるのが、神とか言う名称で呼ばれる奴らになるんだろう」

 それを聞いた稜は鼻で笑うような声を上げて視線を逸らし、それから再び、長いこと、黙って壁際の花々を眺めていた。
 永山も特に何も言わなかったので、2人の周りにはしんしんと重い沈黙の霧が降り積もってゆく。

 その沈黙の霧が腰を浸すくらいの深さになった頃、稜がふいに呟く、「あなたたちは馬鹿だ」

「・・・え?」、と永山が訊き返す。

 花から視線を外して首を巡らせた稜は、強い視線でもって永山を見据える。
 そして白い壁に泥で作ったボールを投げつけるような言い方で、
「馬鹿だ、と言ったんですよ、あなたがたは、本当に ―― 救いようがないくらい、大馬鹿だ」
 と、言い放ち、稜はおもむろにスーツの上着と鞄、そして伝票を手に立ち上がる。

「おい、俺が払うよ」

 慌てて永山がかけた声に立ち止まった稜は、一呼吸おいてからぐるりと振り返る。

「いいえ、結構です。もしかしたらこれが俺の係とやらの、最後の役目になるかもしれないんですよね。
 そういう時くらいは、奢らせてください」

 冷たく言い放った稜は振り返ることなく、店を後にした。

 そうして店を出た稜は足早に通りを歩き抜け、目黒駅の改札を通り、階段を下ってプラット・フォームに降り立つ。
 数分後、列車が到着するから白線から外に出るなという警告のアナウンスが流れ、続いて電車がやってくる。
 速度を落としつつ滑り込んで来る電車を迎えた稜は、その音に紛らすように、

「畜生、ムカつく・・・」

 と、小さく呟いた。

 ―― そして土曜日当日。

 東京湾が漆黒の闇に沈んだ頃、俊輔は品川のマンションで一人、嘗めるようにウィスキーを飲んでいた。

 ただ単純にこの光景を上から俯瞰すると、自棄酒を煽っているように見えたかもしれない。

 が、その実俊輔は、永山が心配する程には落ち込んではいなかった。
 むろん、全く気分が沈まなかった訳ではないが ―― しかし、俊輔は重々承知していたのだ。  稜が一度した決心を、そう簡単に覆す人間ではないということを。
 どんな理由があるにせよ、稜が彼女と会おうと決めたからには、今の今、自分が騒ぎ立ててみても、どうにもならないのは火を見るよりも明らかだった。

 だがそれは裏を返せば、自分の立場に関して言えることでもある。
 稜が自分の元にやってきた、その決心はそんな軽いものではなかったはずだ。
 彼女と再会して心が揺れたとしても、稜は迷うはずだった ―― たぶん、きっと、おそらく。

 だから俊輔はここ数日、ひたすらに考えていたのだ。
 今後もう二度と、こんな下らない状況が生まれないようにする、そんな罠めいた方法を。

 何より重要なのは、これ以上はないという絶対的な場面で、いかに効果的に自分が登場してゆけるかだろうと、俊輔は思う。
 錯覚であってもいい、俊輔からは逃れられないのだと絶望的なまでに稜が思い知る瞬間。
 そこをきっちりと、正確に押さえ込まなくてはならない。

 チャンスは一度きりだろう。つまり、失敗は決して許されない。
 その為には考えに考え抜かれた、水も漏らさぬ綿密な計画と根回しが必要だった。
 稜と彼女の間に何が起ころうが、起こっていようが、最後の最後で自分が勝てれば問題はない。

 そう、そして、その時が来たら、もう絶対に・・・ ――――

「・・・おい!」

 と、そこで突然怒鳴りつけられ、俊輔は深く沈み込んでいた思考の回路から一気に現実世界へと引き戻される。

 反射的に俊輔が顔を上げると、そこには今の今までどうやって罠にかけてやろうかと考えていた稜本人が、仁王立ちに近い格好で立っていた。