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その日、辻村俊輔は、天王洲アイル駅近くの喫茶店にいた。
ジーンズの上下に年期の入った風のつばの広いキャップを目深に被っているその姿は、この辺りに遊びに来る若者のそれと大差なく、故に特別人の目を引きはしない。
だがその実、彼は“この辺りに遊びに来る普通の若者”と同カテゴリに入れられるような存在では決してなかった。
港区に本拠地をおく広域指定暴力団「駿河会」。
日本全国で1、2を争うその大きな組織の一次団体である「辻村組」の筆頭若頭であり、実質のトップでもあったからだ。
その辻村組の主権を握る男は、先ほどから暇そうに頬杖をつき、周りの景色を見るとはなしに眺めていた。
彼の前には2/3ほど中身の減ったコーヒー・カップが置かれ、その向こうには小振りのノート・パソコンが置かれている。
開かれたそのパソコン画面を真剣な表情で見下ろしているのは、志筑稜 ―― 本人に言わせると別の言い分があるらしいのだが、俊輔の現在の恋人であった。
休日だというのにレポート作成の仕事を持ち帰ってきて、
“こういう仕事は周りに人がいた方が捗るから”
と近所の喫茶店に向かおうとした稜に、珍しく予定が入っていなかった俊輔が付いてきていたのだ。
「・・・この時期になると、どこもかしこもヴァレンタイン一色だな」
喫茶店の店先に視線をやりながら、俊輔が呟いた。
稜は5秒ほど間を空けてからキーボードを打つ手を止め、俊輔の視線の先を見て、
「今年に限ったことじゃないけどな」
と、興味なさそうに答え、再びパソコン画面に視線を戻す。
「なんだよ、まさか“こんなのは菓子屋の陰謀だ”とでも言う気か?」
「いいや、別に。参加者が楽しいなら何の問題もない」
と、言って俊輔は冷めかけたコーヒーを一口、口に含んだ。
「一人の人間が処刑された当日だなんてことは、気にしなきゃいいだけだしな」
「大丈夫だ、誰も気にしてない。
と、言うか、そんなことは殆ど誰も知らないんじゃないか」
パソコン画面に視線を落としたまま首を竦めた稜が言い、俊輔は、そうかもな。と言って ―― 暫し口を閉ざして店頭のディスプレイ付近を眺めていた。
しかし数分後、ふと稜に視線を戻した俊輔は、小さく口角を上げ、
「なぁ、ところで、お前はくれないのか?」
と、訊いた。
訊ねられて顔を上げた稜は、そこで初めて真っ直ぐに俊輔を見て、
「・・・何を?」
と、訊き返す。
「チョコレート」
薄く笑ったまま、俊輔が答える。
「・・・誰に?」
すうっと両目を細めて、稜が訊ねる。
「俺に」、と俊輔は言った。
「・・・誰が?」、と稜は言った。
「お前が」
その返答を聞いた稜はたっぷり数十秒、何の感情も伺えない目でじっと俊輔を見詰めていた。
普通の人間なら居たたまれなくなるような雰囲気の、それはそんな視線だったが、俊輔はその視線を真っ向から受け止めて、平然として笑みすら浮かべていた。
やがて俊輔から視線を外した稜は店頭のディスプレイにちらりと視線をやり、それから再び俊輔を見て、
「ははは」
と、まるで砂の上に書かれた文字を読み上げるような口調で言った。
そしてそれ以降、レポートが仕上がるまで、稜がパソコン画面から顔を上げることはなかった。
もちろん俊輔も決して、チョコレートが欲しかった訳ではない。
稜がそんなことをするとはとても思えないし ―― 逆に稜に突然チョコレートなど渡されても驚くを通り越して困惑するというか、反応と対応と対処に困っただろう ―― そんなことは露ほども望んでいなかった。
だからあれは本当に、ただ純粋な、罪のない冗談のつもりだったのだ。
だが・・・ ――――
「・・・可愛くないんだよな」
と、俊輔は呟いた。
そう、何よりも稜のあの反応の仕方が、気に食わないのだ。
ああいうことを言われて、赤くなったり、恥じらって見せたり、そんな反応を示す男でないのは分かっている。
だが苦笑をして何を言っているんだとか、冗談はやめろとか、そういう普通の反応がどうして出来ないのか。
何より特に、最後のあの棒読み的な笑いは酷く癇に障った。
「・・・志筑さんの話ですか」
移動中のリンカーン・コンチネンタルの助手席に座った三枝が、いかにも興味なさそうに、どこまでも義務的な声で言った。
俊輔は答えなかったが、後部座席左側、俊輔の隣に座った永山は小さな声を上げて笑う。
「あの人に可愛さを求めるのは、ヴラド公にメイド服着て奉仕しろって言うようなもんでしょうよ、若頭」
「・・・何だ、それは」
思い切り顔を顰めて、俊輔は言った。
「あの人は残虐性こそないでしょうが、冷徹という面では言い得て妙でしょう」
何故か意味もなく得意げに、永山は言った。
「ヴラド公はともかく、可愛い相手が欲しいなら、当てはいくらでもあります。
なんなら5、6人纏めてご紹介致しますよ、若」
最初の事務的な口調をかなぐり捨て、前のめりな口調で、三枝が言う。
それは今にも手にしたファイルから該当書類を取り出しそうな、完全に本気の口調だった。
「ああもう、お前も分かんねぇ奴だな、相変わらず」
と、永山は苦笑を浮かべる。
「結局若頭は、犬猫みたいにただただ愛玩するだけの存在じゃ物足りねぇのさ。求めているのは、花底の蛇みたいな緊張感 ―― そう考えると志筑さんはお誂え向きだ。
ま、とはいえあの人の場合、ちょっと相当に毒気が強そうだから、取り扱いには注意しなきゃならないだろうがな」
そう言った永山が、爆発するように馬鹿笑いをし始め ―― 2人の意見のどれにも反論する気にならない俊輔は、憮然として座席の背もたれに深く身を沈め、目を閉じた。