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そんなやりとりがあってから、数日の後。
夜の10時過ぎに俊輔が品川のマンションに帰ってみると、リビングのソファに稜が座っていた。
「・・・ああ、来てたのか」
俊輔が言うと、稜は白い目で俊輔を睨む。
そして手にしていた琥珀色の液体が入ったグラスを、小さな音と共にテーブルに置いた。
「経堂のマンション前に皆川さんがいて、お前が呼んでるって言ってたぞ。何かの間違いだったのなら、帰るけど?」
「ふぅん、皆川の奴も、案外気が利くな」
「・・・なんだそれ、ふざけるな。振り回されるこっちの身にもなれよ。俺にだってな、それ相応の予定ってものがあるんだ。それを考えようともしないで、お前らはいっつも、勝手気ままに好き放題・・・」
そのまま果てしなく続いていこうとする稜の抗議の言葉を、俊輔はその顎を後ろから掬い上げるように口付けて遮った。
だが通常なら激しさを増してゆくはずの口付けが、何故か途中で途切れる。
不思議に思って見上げた稜を、俊輔はさも嫌そうな表情で見下ろしていた。
人にキスをしておいて、その顔はないだろう。と稜は更にむっとしたのだが、そう口に出すよりも先に、
「・・・甘い」
と、俊輔が呟くのを聞いて合点がゆく。
「ああ、これ、食べてたからな。お前も食べるか?結構旨いよ」
これ、と稜が差し出されたのは、ほっそりと美しい形のチョコレートが詰められた小箱だった。
俊輔は暫し黙ってそのつやつやとした深紅色のヴェルヴェットの張られた小箱を見下ろしていたが ―― やがて、低い声で訊ねる。
「・・・これは?」
「あ、もしかして、こういうオレンジピール入りみたいなの、嫌いなのか?それなら、他のもあるけど、色々」
「・・・色々・・・?」
「ああ、そこに ―― と、稜は顎でソファの合間にあるガラス・テーブル脇に置かれたいくつかの紙袋を顎で指した ―― 置いてあるよ。生チョコレートからビターなのから、各種あると思う。全部見てないから分からないけど。
そうそう、そういえばさっき開けてみたのが、ちょっと面白くてさ・・・」
「いや、稜、ちょっと ―― ちょっと待て」
俊輔の困惑を置き去りにして続いてゆこうとする稜の話を、上げた右手で遮って、俊輔が言う。
「それは一体、何なんだよ?」
「・・・何って・・・チョコレートだよ。ヴァレンタインだっただろう、昨日」
「・・・・・・。」
「でも昨日は会社が休みで、だから今日貰ったんだよ」
「・・・会社で・・・?」
「そうだけど・・・どうかしたのか?」
その時点でようやく俊輔の様子がどうもおかしいことに気付いた稜が、眉根を寄せて首を傾げる。
「どうしたもこうしたもあるか!」
きっぱりと身体を起こした俊輔が、厳しい口調で言った。
「な、何だよ、突然・・・」
唐突に怒鳴り出した俊輔を、困惑して見上げながら稜は言い ―― 怒りの理由を探すように周りを見渡してから、再び俊輔を見る。
「もしかして、ビクターサロモン、勝手に開けたのがまずかったのか?ここにあるのは好きにしていいって、お前、言ってたからさ・・・ずっと飲んでみたかったんだよ、これ」
「何をとんちんかんなことを言っているんだ、お前は!」
更に声荒げて、俊輔が言った。
「そんな、訳の分からん女から貰ったようなものを、俺に食わせようとするな!」
「はあぁ?
・・・ったく、なにを言い出すかと思ったら・・・」
俊輔の怒りの理由が何となく分かってきた稜は、やれやれとでも言いたげに首を横に振る。
「あのな、お前んとこの会社はどうだか知らないけど、一般企業でヴァレンタインなんて、年間の恒例行事の一環なんだよ。それをそんな、鬼の首を取ったみたいに目くじらたてなくても・・・」
「恒例行事が聞いて呆れる。お前のいる営業部のフロアに、そんな数の女が働いているのか?」
と、俊輔はガラス・テーブル脇に並べて置かれた、3つの紙袋を糾弾するような目つきで見る。
「・・・女性は他の階にもいるんだけど」
「あのな、そんな、“年間の恒例行事の一環”でフロアなんか越えない ―― と言うかそもそも、それを見て・・・」
と、俊輔は稜が手にしている小箱や、紙袋から除く包装紙に包まれた箱を指して言いかけた ―― が、途中で唐突に口をつぐむ。
そして短い沈黙の後、鋭く舌打ちをし、
「・・・もういい。俺は帰る」
と、言ってぷいとリビングを出ていってしまう。
その後ろ姿を呆然と見送った稜は ―― 玄関のドアがどことなくヒステリックに閉められる音を聞いてから、
「・・・帰るって・・・ここ、お前のマンションだろ・・・」
と、誰に言うともなく、呟いた。
それから2日後。
7時過ぎに会社を出て虎ノ門駅に向かって歩いていた稜は、すぐ横の車道にブレーキの音高く停車した車を見て立ち止まった。
見覚えのある濃紺のマセラティのウィンドウが音もなく下ろされ、そこから永山が顔を出す。
「よう、久しぶり」
と、永山は言った。
「・・・どうも」
と、稜は言った。
「ちょっと話があるんだ。乗って」
と、永山は言い、助手席を指さす。
稜は小さく息を吐き、黙って助手席に乗り込む。
すぐに流れるようなハンドル捌きでマセラティを車列に割り込ませた永山が言う、「最近、若頭と ―― 俊輔と、何かあったのか?」
稜は前の車のテール・ランプに視線を固定させたまま言う、「・・・どうしてです?」
「何かあったんだな、やっぱり」
と苦笑した永山が、ちらりと稜を見る。
「いえそんな、特別“何か”という程のこともないですが」
と、稜は肩を竦める。
「そちらこそ、どうかしたんですか?」
「うーん、実はここ数日、俊輔の機嫌が最悪でね。周りがもう割り食って大変なことになってるんだ。
で、俺が原因究明に乗り出したって訳」
「・・・・・・。」
「何があったのか、教えてくれないかな」
「・・・でも俺との間にあったことなんて、本当に取るに足らない、下らないことなんですが」
「いいから、話してくれ」
真剣な永山の口調に背中を押されるように、稜は2日前にあったことをかいつまんで説明する。
そして最後に稜は、
「職場の同僚から貰ったものにそんな、何日も不機嫌になるほど反応しないと思いますけど・・・理由は他にあるんじゃないですか?」
と言ったが、永山は、うーん。と唸って暫く何やら考え込んでいた。
そうこうしているうちにマセラティは豪徳寺を過ぎ、稜の視界に見慣れた建物や店が混じりこんでくる。
「・・・あのさ、その、貰ったものって、まだ残ってるのか?」
稜のマンションへ続く道を曲がったところで、永山が訊いた。
「ええ、8割方残っていますよ。チョコレートなんて普段、そうそう食べないですから」
こっちの方へ送り届けられるのは珍しいな。と思いながら、稜は答えた。
「だったらちょっとそれ、見せてもらったり出来るかな」
「・・・ええ、まぁ、それは・・・構いませんが」
「そっか。なら、頼むよ」
と、言って永山は、稜の暮らすマンション前で、マセラティのエンジンを切った。
訳も分からず、内心激しく首を捻りつつ、稜は車を降りて永山を自室に案内する。
そして求められるまま、殆ど手付かずで部屋の片隅においてあった紙袋を、永山の前に持ってゆく。
稜が持ってきた紙袋の、上の方に見える包みを見ただけで永山はにやりと笑い、上げた右手で顎を擦る。
「ははぁ、なるほどねぇ」
「・・・なにが、なるほどなんです?」
「いや、だってさ・・・あんたもさぁ、これを見て本当に何も思わないのか?」
「何です?」
とぼけているのでもなんでもなく、まるっきり平然とした様子の稜を見て、永山はむしろ俊輔の方に同情してしまいそうだった。
紙袋に入れられているのは、何をどう見ても義理チョコとは思えない、超高級チョコレートばかりだったのだ。
稜が勤めているのは日本有数の大企業だが、だからといってお義理で配るチョコレートの質がこうも跳ね上がるとは思えない。
三枝が調べたところによると、以前稜と付き合っていたのは取引先の会社の女性だという話だ。
と、いう事は結婚寸前だった稜が彼女と別れたという話が、そこはかとない噂となって広まっていてもおかしくはない ―― つまり、その後釜を虎視眈々と狙う女性は、少なく見積もっても紙袋3杯分はいるということになるのだろう。
そこまで考えて、永山は不思議そうな顔をして自分を眺めている、こういう点では酷く無頓着らしい稜を見やる。
「あのねぇ、志筑さん。これはもう殆ど、本命に告白するようなレヴェルのものばっかりじゃないか」
顎を撫でた手をそのまま首に滑らせて、永山が言う。
「・・・そうなんですか?」
無感動に首を傾げて、稜が言う。
「そうなんですかってさ・・・とにかく俊輔の不機嫌の原因は間違いなく、これだよ」
「・・・そんな、でも・・・」
「デモもストもない。絶対に原因はこれ。何を賭けてもいい。
頼むから俊輔の機嫌をとってくれないかな ―― みんな、死ぬ思いしてて、もう、大変なんだ」
「・・・しかし・・・」
「真面目に頼むよ。本当に、こんなのがあと何日か続いたら、うちの幹部は根こそぎ胃潰瘍で入院だ」
「・・・そんなに?」
小さく眉根を寄せて稜が訊き、永山が大袈裟でもない真剣さで何度も頷いた。
それを見た稜は、うんざりとした様子を隠しもせず、深い深いため息をつく。
「・・・一体どうしろというんです」
「明日にでも、あんたの方から俊輔に連絡してやってくれ。今日は夜まで会合があって、まだ終らないって話だから」
「分かりましたよ ―― 全く、まるで子供ですね、あいつは。つくづくと、厄介な男だ」
吐いて捨てるように稜が言い、
「・・・強い否定はしないけど・・・出来ればそれ、本人の前では言わないでおいて欲しいね」
と、後半、永山は呟くように、言った・・・・・・。