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「こうしてみると、1ヶ月っていうのは実に早いよな。なぁ、そうは思わないか?」
共に夕食をとった店を出たところで、俊輔は楽しそうに言った。
俊輔の視線の先を追いかけて見てから、稜は小さく首を曲げ、ちらりと俊輔を見た。
「えー、別に強制する気はさらさらありませんが、これのお返しはいただけるのかな、どうなんだろう?」
と、懲りない俊輔は更に言い、手を伸ばしてシンプルな指輪のはめられた稜の左手を取る。
その後予定の入っていた俊輔を迎えに来て、一連のやりとりを見聞きしていた永山は、
“こいつは完全にマゾっ気があるよな。わざと怒らせて怒られて、それを楽しんでるんだからな・・・”
と、思いつつ、視線を明後日の方向に泳がせる。
そこには多少、稜の反応ぶりを楽しみに待つような気持ちもあった。
三枝に対する際など、自分がやっつけられるのはまっぴらごめんだが、人がやられているのを安全圏で眺めるのはなかなか楽しいものである。
だが、永山のその予測は外れた。
俊輔の言葉を聞いて少し考え込む様子を見せた稜は、すぐににっこりと微笑み、
「もちろん、それは考えてる」
と、答えたのだ。
そして永山がした予測と大差ない心構えをしていたのだろう、訝しげに眉根を寄せる俊輔を稜は改めて真っ直ぐに見上げる。
「お前が喜びそうなものとか、欲しがっているものとか、何かないかって考えてみたり、そういう素振りはないだろうかって様子を伺ってみたりしてさ ―― ここのところ、ずっと考えてた、うん」
「・・・・・・。」
「しかしなぁ、もう実に残念な話なんだけれど、俺、9日から16日にかけて海外出張の予定が入っているんだよ。
せっかく色々と考えていた計画を実行出来ないのは非常に無念極まりないんだけどさ、そういう訳だから諦めてくれ、悪いな ―― と、稜は腕を上げ、腕時計の針の位置を確認した ―― ああ、お前、もう行かなきゃならないんだろう。それじゃあ、またな」
そこまでを一方的に話しきり、軽く俊輔の肩を叩いた稜が、軽快な足取りでもってその場を立ち去ってゆく。
唐突に何か奇妙な食感の、未知なる食物を口内に押し込められたような表情でその後ろ姿を見送った俊輔が、
「ほんっと、憎ったらしい・・・っていうか、そもそも出張って話自体、聞いてないぞ」
と、呟き ―― もうどこをどう突っ込んでいいものやら、さっぱり分からなくなった永山は、
「・・・筆頭、すみませんが、時間、押してるんで」
とだけ、なんとか、言った・・・。
その世界ではトップ・クラスと言っても過言ではない極道2人を完膚なきまでにやりこめた稜は、それから数日後、9日早朝のフライトでニューヨークに降り立った。
そして共に行った水谷優斗と、予め決めていた通りにスケジュールをこなし始めたのだが ―― ニューヨークに到着したその日の夕方過ぎ、最終日に予定していたとある会社の社長との打ち合わせが唐突にキャンセルされて予定が狂ってしまう。
その社長と会うことがこの出張の一番の目的でもあったのだったが、キャンセル理由が“会社の階段を踏み外し、骨折してしまったため”というのでは文句を言う訳にもいかなかった。
「・・・タイミング悪いよなぁ、ったく」
会社に入れた報告の電話を切った水谷が、苦々しげに言った。
「・・・部長は、なんて?」
「仕方ないから、明日明後日の予定だけこなして帰って来いってさ」
「つまり近々またこっちへ来なきゃならないってわけか」
「次はどっちかだけでいいだろうけどな・・・面倒なことには変わりないよな」
「確かに」
などと言いつつ、ついても仕方のないため息をつきつつ、2人は夕食を取るために入っていたレストランを後にする。
「せっかく評判のいいレストランに来てみたのに、あんな連絡が入って台無しだったな。
なぁ、どこかで飲み直さないか?」
「うーん、いいけど・・・」
小さくあくびをしながら、稜は言う。
「でも俺、今酒が入ったら速攻で眠くなりそうなんだけど」
「そういや志筑、今日は朝からすげぇ眠そうだよな」
外の寒さに首を竦め、水谷は言った。そして笑う。
「機内であんなに爆睡してたくせにさ。プレゼン資料の最終チェック、全て俺に押しつけて」
「だからそれは悪かったって、何度も謝ったじゃないか」
「はは、冗談だって。
うーん、じゃあさ、ホテルの部屋で飲もうぜ。それなら寝ちゃってもいいし」
「ああ、そうだな」
と、頷いた稜が、そこで激しく身震いする。
「ああ、しかしこっちは寒いな、本当に」
「そりゃお前、そんな風にコートの前を開けっ放しにしてりゃ当然だろ」
と、呆れたように水谷は苦笑する。
「ニューヨークの緯度は日本で言うと青森あたりで、つまりここは完全に北国なんだよ。
東京でも寒くねぇのかなって思ってたけどさ、寒いなら前ぐらいしめとけよ」
そう指摘され、稜は改めて自分の格好を見下ろす。
「ああ ―― 確かに、これじゃ寒いのも道理か」
言われたとおりにコートのボタンを留めながら、稜がどことなく感心したように言う。
「マジで気付かなかったのか、今まで」
大袈裟に首を竦めてみせながら、水谷が言う。
「うーん・・・そうだな、東京でも時々は思ってたかもしれない・・・でも最近はあんまり覚えがないな。暖冬のせいかな」
「おいおい、何を言ってるんだ、向こうも今年はやたらと雪が多くて寒かっただろうが。
本当に志筑って面白いよな、話してて飽きない」
「そうか?」
と、稜が懐疑的に言う。
「そうさ」
と、水谷が断定的に言う。
「なんて言うのかな、お前って、鋭いところと鈍いところ、優しいところと冷たいところ、頭のいいところと抜けてるところがとてつもなくかけ離れて共存してるんだよな。中間がごっそり抜け落ちてる」
「・・・誉めてないよな、それ」
鼻の頭に小さく皺を寄せて、稜が言う。
「あ、流石に気が付いた?」
しまった、というような演技をしながら言った水谷が、堪えきれないという風に笑い出す。
当たり前だろ、普通気付く!と言って稜も笑い ―― そんな軽口を交わしながらホテルにチェック・インし、フロントにワインと軽くつまめるものを持って来るようにと頼む。
いったんそれぞれの部屋に入り、水谷が改めて稜の部屋にやってきたのと同時にボーイもやってきて、テーブルのセッティングをし、ワインを開けて去ってゆく。
「アメリカのワインなんて馬鹿にしてたんだけど、最近は結構旨いのが多いな」
グラスに注がれたワインに口を付けた水谷が、明かりにグラスを透かすようにしながら言った。
「ワインといえばフランス、って言うのは、日本だけだって聞くよな。
そういや少し前にオーストラリアのワインを飲んだけど、それも悪くなかった」
答えた稜は無造作にネクタイを緩めながら腕を伸ばし、チーズが乗せられたソーダ・クラッカーを手にした。
「ああ、オーストラリアは結構葡萄の古木が多いから、無名な割に質が高いらしい・・・」
そう言いかけた水谷が、何故かそこで言葉を切り ―― 次いで、妙な笑いを唇の端に閃かせる。
水谷のその笑いを見た稜は、ソーダ・クラッカーの上のチーズだけを口に放り込んだところで小さく顔を顰める。
「・・・何だよ?」
「いやぁ、うーん・・・。
あのさ、そういや志筑、結婚、やめたんだって?」
「・・・そうだけど」
「で、次の女は相当激しい人なわけだな?」
口元に浮かべた笑いを深めて、水谷が言う。
「・・・何の話だ?」
眉間に寄せた皺を更に深めて、稜が言う。
「多分そこ、自分じゃ見えないんだろうけど・・・ばっちりついてますよー、首筋に。キスマークが」
にやにやと笑いながら、水谷が言った・・・。