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にやにやと笑う水谷の指摘を受けた稜は、反射的に空いた左手で右の首筋を押さえる。
「逆でございまーす」
顔に浮かべた笑いを消さないままに、水谷が言った。
「志筑って普段、その手の話題にはあんまり乗ってこないじゃないか。だからそっちの方は淡白なんだろうなぁって思ってたんだけど・・・相手は違うわけだなー?」
「・・・ったく、あんの馬鹿男・・・」
開けていたワイシャツのボタンを留めなおしながら、稜は呟く。
出張のことを、言っていなかったからだろうか。
8日の仕事帰りに殆ど拉致のようなやり方で品川のマンションに連れて行かれた稜は、9日の明け方まで俊輔に散々抱かれ尽くしていたのだ。
資料のチェックがままならないほどに疲れ果て、水谷に全てを押しつけて眠ってしまったのも、そのせいだった。
「・・・え?何だって?」
小さな稜の呟きが聞きとれなかったのだろう、水谷が言う。
「・・・いや。こっちの話」
ソーダ・クラッカーを齧りながら、稜は言う。
「しかし世の中不公平だよな。こちとら必死で相手を捜しても滅多に叶わないでいるのに、もてる男には次から次へと相手が見つかるんだからさ」
「・・・結婚して子供までいるくせに、まだ必死で相手を捜してるのか。問題発言だな」
「俺の話じゃない、一般成人男子の心の声を代弁したんだよ。そこらの男から見たら、志筑みたいなのは羨ましいと思うもんだぜ?
そうそう、お前の婚約解消の噂を聞きつけた総務課とか秘書課の女たちが、一時相当色めきたってたってよ。ま、その指輪見てフェイド・アウトしてたけど」
と、水谷は言って、ワイングラスの底の部分で稜の左手あたりを指した。
「それにしても、お前がそういうのしてるの初めてじゃないか?婚約中でも、指輪なんかしてなかったのに」
「・・・つけたくてつけてるわけじゃない」
と、ワイングラスにワインを追加して注ぎながら、稜は言う。
「元々俺はこういうの、好きじゃないんだ。確かに今まで、一度もしたことがないしな。
でももう、本当にうるさい奴でさ・・・抵抗するのも面倒臭くて」
稜の答えを聞いた水谷が、再び最初の妙な笑いを口元に閃かせる。
そして言う、「それって、一種ののろけだな」
驚いて顔を上げ、稜は言う、「・・・どうしてそうなるんだ」
稜がワインを追加してくれたのに礼を言ってから、水谷は続ける。
「志筑とは長いつき合いになるから、もう分かってる。
お前は本当に嫌なことは、絶対に、死んでもしない奴だ。そうだろ、違うか?」
「・・・・・・。」
「今回は、マジで本気なんだろうが。じゃなきゃお前は、本来意に添わない要求に信念曲げて甘んじたりしない」
どこか絶対的な口調で言い切る水谷の声を聞いた稜は、そこで押し黙る。
思っても見なかった、考えてもいなかった水谷の指摘に驚いたこともあったが―― それだけでなくもう1点、ふいに、もしかしたらと気付いたことがあったのだ。
口を閉ざして考え込む稜に、水谷はそれ以上何も言わなかった。
そしてワインボトルがほぼ空になった頃、
「・・・ところで、今週末、お前はどうする?」
と、水谷は静かに訊ねる。
「・・・どうするって?」
と、深い物思いから顔を上げ、稜が訊き返す。
「金曜日、最終の予定は午前中一杯で終るだろう。その日のフライトで日本に帰るか?俺はせっかくだから、日曜までこっちにいようと思ってるけど」
「ああ、そうか・・・いや、俺は一足先に帰る」
殆ど躊躇いもせずに答えた稜を水谷は、
“やっぱ激しい彼女が恋しいか、んんー?”
などと言ってからかったが、稜はそっぽを向いて取り合わなかった。
断じて俊輔が恋しいわけではなかったが ―― たぶん ―― 早急に確かめてみたいことが、稜にはあったのだ。
土曜の夕方に成田空港に到着した稜は、入国手続きを済ませたその手で俊輔に電話をかけた。
3コール目が鳴り終わったところで電話に出た俊輔は第一声、
「・・・そっちは今、朝だよな?」
と、言った。
「いや、夜。
ちょっと予定が変更になって、今成田空港に着いた」
「へぇ、そりゃあ凄い。並々ならぬ運命の意図を感じるね。どうしてベートーヴェンの曲が鳴り出さないのか、不思議なくらいだ」
「一体何の話をしてるんだ、お前は?」、と稜は言った。
「俺も成田にいるって話をしてるんだ」、と俊輔は言った。
「嘘だろう?」
中くらいの間を取って、稜が訊く。
「いや、本当」
小さく笑いながら、俊輔が答える。
「・・・本当にお前も成田にいるのか?本当に?今の今?」
「随分と信用がないんだな ―― と電話の向こうで俊輔が苦笑する気配がした ―― 空港ではないが、近くのホテルにいる」
「・・・どうして?」
「お前が今日帰ってくる予感がしてね、忠犬よろしく待っていたんだ」
「・・・それは今度こそ、絶対に嘘だよな」
「嘘と冗談を混同するようになったら人生終りだと、俺は思うぞ」
と、俊輔は笑って言う。
「台湾から人が来る予定になっていてそれを迎えに来ていたんだけれど、諸事情あって延期になった。で、帰るのも面倒だし、彼のために押さえてあったホテルの部屋もあったしで、今、成田にいるってわけだ」
「・・・ふぅん」
「ところでお前、今どこにいるんだ?」
「第2ターミナル」
「じゃあ、迎えに行ってやる」
そう言った俊輔が、続けて待ち合わせ場所と所要時間を告げる。
「・・・分かった」
と、稜が言い、
「じゃあ後で」
と、俊輔は言い、そこで通話は切れた。
「疲れたか ―― いや、それより腹が減ってるって感じか」
約束の時間ぴったりに待ち合わせ場所へ姿を現した俊輔が、言った。
「・・・なんで分かる?」
小さく首を捻り、稜が訊く。
「お前はいかにも、くそまずい機内食なんかを食べなそうだからさ」
軽く声を上げて笑い、俊輔が答える。
「ところでこの間の話の続きだけど、お前、時期的にこれはいかにも“自分がプレゼントです”ってタイミングじゃないか?手首とかにリボンでもつけていれば、気分は更に盛り上がるのに」
性懲りもなくそんな言葉を、俊輔は口にした。
だが稜はいつもと違い、ただ黙って見ていた ―― 俊輔の両手が、本当にさりげない、さりげなさすぎて気付かないような自然さで上げられ、開けたままの稜のコートの前を、ゆっくりと閉めてゆくのを。
そう、ニューヨークで水谷優斗に指摘されてしばらく後に、稜は思い当たったのだ。
俊輔と再会して最初に過ぎていったあの最悪な冬も、そしてこの冬も、彼がこうして会う度に稜のコートの前を、さりげないやり方で閉めていっていたのを。
本人にそのつもりはないのかもしれないが、そういう甘さを、憎まれ口の影に隠すようにして。
「・・・どうしたんだ」
と、俊輔が不思議そうに言った。
「・・・何が?」
と、稜が言った。
「こういうことを言うと、いつもなら怒るじゃないか」
「怒られたいならご要望にお応えするけど ―― でも結局のところ、激しい彼女には何を言っても無駄なんだよな」
「はぁ?なんだそれ?意味が分からない」
と、俊輔がぎゅっと顔をしかめる。
「なんでもない」
と、稜はあらぬ方に視線を泳がせる。
「・・・なんだか気持ち悪いな。言いたいことがあるならはっきり言えよ」
「なんでもないって。それに少しはミステリアスな部分があった方がいいだろう、飽きなくて」
「お前に限っては、敢えて努力する必要は全くないと思うが ―― まぁ、何はともあれ飯を食わせてやるから来い。
プレゼントさんにはスタミナをつけておいて貰わないと、これから俺に付き合えないだろうし」
にやりと笑って、俊輔が言った。
「・・・お前・・・、そういうことを言わなければいいのに・・・」
深いため息をついて、稜は首を横に振った。
それを聞いて今度は声を上げて笑った俊輔が、
「悪いがこれは標準装備なんだよ、俺の」
と言い、早く着いてこいという風に顎をしゃくる。
そういう不遜な素振りもやめればいいのに・・・。と稜は思った。
が、再びため息をついて見せただけで言葉にしては何も言わず、俊輔の後を追う。
黙ってプレゼントやらにまでなる気はなかったものの、せめて今だけ、ほんの数時間だけでも、おとなしく言うことを聞いてやろう。と思いながら。
―――― NIGHT TRIPPER番外編 ナイト・ウェイブ END.