1 : 迷いと後悔
その日、稜は品川にある俊輔のマンションでひとり、テーブルに置いた書類を前に腕を組み、難しい顔をしていた。
俊輔と再会して約2年、その俊輔と思いがけない関係になって、かれこれ半年ほどが経つ。
最初に比べたら、抵抗(のようなもの)はなくなった ―― だろうか、どうだろう・・・分からない。
幾度考えてみても、稜にはそれだけが分からないのだ。
むろん、俊輔が嫌いではない。当然ながら、それはそもそもの大前提として、はっきりとしている。
しかし実際俊輔をどう思っているのかと誰かに問い質されたとしたら、その問いにすらすらと明確な答えを返せる自信が、稜にはまるでなかった。
俊輔はどうだろうな。と稜は目の前に置いた忌々しい書類を目線と同じ高さまで持ち上げて考えてみる。
恐らく俊輔はどういう答えを返すにせよ、ちっとも悩んだりしないに違いなかった。
俊輔が思い悩んで立ち止まったり、選択を迫られて右往左往するというような場面を、これまでに一度も見たことがない。
猪突猛進を絵に描いたようだなどと周りから評され、実際に度々筋肉反射的な行動を起こしていた稜だったが、その分行動してしまってから後悔することも少なくなかった。
だからこそそんな稜にとって、俯瞰するように周りの状況を見定めてから行動を起こす俊輔の、通り過ぎた後方を一切顧みない(ように見える)毅然とした生き方は憧れですらあったのだ・・・ ――――
と、その時、ふいにリビングのドアが開いた。
むろんそこに姿を現したのは俊輔であり、ソファに座って書類を睨む稜を見て、
「・・・なんだよ、いるんじゃないか」
と、眉根を寄せる。
「下で呼んだのに出ないから、また煙のように抜け出してどこかに行っているのかと思った」
そう、稜は以前一度、ここに通された後で裏口を通ってコンビニエンス・ストアに出掛けたことがあり、俊輔は今でも時々、こうしてその時のことを口にする。
稜としては、普段通りの行動をしただけのつもりだった。
10分ばかり近所に出掛けるくらいのことで、わざわざエントランスに待機する俊輔の部下たちに報告などをする必要はないと思ったし、特にこそこそと抜け出して行ったわけでもなかった。
だがその後その事実が判明し(ちょうど稜の不在時に俊輔が帰ってきたのだ)、下のエントランスに待機していた舎弟たちが相当きつい制裁を受けたと聞かされ、仰天したのだ。
稜が簡単に出て行けるということは、逆に言えば誰でも簡単に入って来られるということであり、危機管理がなっていないという理由だったらしい。
そう説明されれば、まぁ一応、筋は通っている・・・ように思えなくもない。
しかしやはり稜からしてみれば、少しばかり自意識過剰なのではないかと感じる ―― が、なにはともあれそういう話を聞くにつけ、自分がどういう立場の男と共にいるのか思い知らされる気はした。
「・・・ちょっとコンビニに出掛けただけで人が殴られるって知ってたら、あんなことはしなかった」
この話になる度に返す答えを、稜は口にする。
そして手にしていた書類をソファの上に放った。
「さっきベルが鳴ったのも知ってたよ、でもよく分からなかったから出なかった。
大体お前、何だって自分の家に入るのにベルを鳴らさなきゃならないんだ」
「人のいる家に帰るってのが、ちょっと新鮮でさ」
上げた前髪を手で下ろしながら、俊輔は言う。
「だからお前、次からはちゃんと出ろよな」
「冗談だろ、そんなごっこ遊びみたいなことに、いちいち付き合ってられるか」
反射的にそう答えてから、しまった、と稜は思う。
今でこそ稜も近しい家族を持たない身だが、大学を卒業して就職し、実家を出るまでは家に帰れば当然のように家族が出迎えてくれる生活を送っていた。
だがそんな稜と違って母子家庭で育った俊輔が、人のいる家に帰る機会をそう多く持たなかったであろうことは想像に難くない。
余りに心遣いのなさ過ぎる回答だったかもしれないと後悔した稜は、すぐに謝ろうとした。
しかし稜が謝罪の言葉を口にするより先に俊輔が、
「ところでさっきから何を見てる?仕事・・・じゃなさそうだが」
と、訊いてきたことで、謝るタイミングを逸してしまう。
「・・・ああ・・・、これね・・・、これは仕事じゃない」
一瞬躊躇ったものの謝るのを諦めた稜が、脇に置いた書類を再び手に取る。
「経堂のマンションの更新料の通知なんだけどさ・・・値段が、ちょっと・・・」
「金がないのなら、いい業者を紹介してやるぞ」、と俊輔が笑う、「金利はぐっと控えめにするように、口添えしてやってもいい」
「それはそれは、ありがたくて涙が出るね」、と稜も笑う、「いや、実はさ・・・ちょっと相談なんだけども・・・」
「・・・なんだ?」
稜の躊躇いの気配が感じられる口調を聞き、表情を改めた俊輔が稜の横に腰を下ろした。
「そんな改まらなきゃならない話じゃないんだけどさ・・・、いや、あのさ、俺、ここに越して来たらまずいか?」
稜のその問いかけを聞いた瞬間、俊輔はすっと両目を眇めるようにした。
そしてそれから暫く、無言で稜を眺めていたが ―― やがてゆっくりとしたやり方で身体の向きを正面に戻し、ソファの背もたれに背中を沈める。
俊輔のその雰囲気からは、彼が稜の提案に対して何を感じたのかはまるで伺えなかった。
冗談じゃないと感じているように見えなくもなかったし、前向きに検討しているように見えなくもなかったし、深く思い悩んでいるように見えなくもなかった。
その真意を測りかね、稜は5秒ほどの空白を空けた。
やはり言わなければ良かったかもしれないと後悔したが、一度言い出してしまっただけに後には引けず、緩慢な口調で続ける。
「・・・ええっと、別に、どうしてもって言っている訳ではない。駄目なら駄目で、それはそれで構わないんだ。
ただここ2、3ヶ月で経堂に帰った回数が両手の指の数に満たないってのは、どう考えても勿体ないと思ってさ。しかもそこへ来て、この家賃2ヶ月の更新料・・・、正に金を溝に捨てている気分になってきて」
妙に説明調というか言い訳調になって、稜は言った。
稜のその説明、または言い訳の言葉にピリオドが打たれた後も、俊輔は長いこと黙ったままでいた。
だがやがて首を曲げて稜に視線を戻した俊輔が、唇の左端だけを歪めるようにして笑い、
「お前は頭はいいのかもしれないが、想像力ってものが決定的に欠落してる」
と、言った・・・。