Night Tripper

2 : 口先だけで誤魔化して

 その聞き覚えのある ―― 正確に言うならば“言い覚え”のある ―― 言葉を聞いた稜は、さも嫌そうに顔を顰めた。
 稜の表情を見た俊輔は、してやったりと言わんばかりに悪戯っぽく笑う。

「ああ、やっとお前にこの台詞を言ってやれた。あの時お前に言われたこの台詞、ボディー・ブローの如く、後からじわじわと効いてきてさ、相当ショックだったんだよな、実は。
 いや、しかしお前もよくもまぁこういう台詞がすらっと出てくるもんだよな。つくづくと、感心させられる ―― って、おいおい待てよ、冗談だって。そうすぐに怒るな」
 途中、無言で立ち上がろうとした稜の腕を、俊輔が慌てて掴んで引き戻す。
「冗談っていうものの定義は、その場にいる人間が楽しく笑えるものだと俺は思うんだが、違ったか?お前のは、全然笑えない」
 引き戻されるのに抵抗はしなかったものの、憮然としたまま稜は言う。
「分かったよ、もう言わない」
 と、俊輔は言った。
 どうだか。と稜は思ったが ―― 言い出すと長くなりそうだったので、黙っていた。

「・・・お前がここに来るのに、反対はしない」
 稜が何も言わなかったので話を戻して、俊輔は言う。
「でも経堂のあのマンションは、借りたままにしておけ」
「・・・どうして?」
 右側に首を傾げて、稜が訊く。
「どうしてって・・・。
 お前なぁ、ここがどこだか、分かっているか?」
 呆れたような、困ったようなため息をついて、俊輔が訊き返す。

 どこって・・・品川?と言って更に首を傾げる稜を見て、俊輔は限りなく苦々しげに笑う。

「住所を訊いてるんじゃない、いいか、ここはな、ヤクザの幹部の、自宅のひとつなんだ。
 今の状態であれば、特に大きな問題にはならないだろう。だがお前がここに越してきたりしたら、どこに対しても一切の言い逃れが出来なくなる」

 ゆっくりと、子供に言い聞かせるような口調で俊輔が言い ―― 稜は返す言葉もなく黙り込む。

「・・・こういうことは、出来れば俺も、余り言いたくない」

 流れた長い沈黙の後、掴んだままの稜の右手の親指あたりに向かって、俊輔は言った。

「お前が俺を、かつての友人・・・今は友人と表現するのは明らかに違うと思うけどさ ―― と、俊輔は周りの空気の冷たさを緩和しようと試みるかのように笑う ―― まぁとにかく、昔のままみたいに見て、接してくれるのをどれだけ嬉しいと思っているか・・・、どんなに言葉を尽くして説明しても、きっとお前には分からないだろう」

 そこで俊輔は一旦言葉を切り、稜は黙って俯き加減の俊輔の横顔を見ていた。
 俊輔は気持ちを切り替えるように軽く咳払いをして、続ける。

「だがそれはそれとして、今の俺は紛れもなくヤクザの世界の中枢部に籍を置く男なんだ。その事実は知られるところには知られていて、今更絶対に変わらない。いいか、それを忘れてもらっちゃ困る」

「・・・それはそうだよな・・・ごめん」
 と、やがて静かに、稜が言う。
「謝るな。お前が謝るな」
 と、咳き込むような勢いで、俊輔が言う。
「この場所にお前を引きずり込んだのは俺なんだ。謝るべきなのは、明らかに俺の方だ」

 そんな苦々しく切なげな俊輔の声音を聞いた稜は、訊ねてみたくなる ――――

 “なぁ、どうしてこんな世界に足を踏み入れなければならなかったんだ?”

 それは以前からずっと、訊いてみたくて堪らなかったが、どうしても訊けないことだった。

 永山豪や三枝裕次郎、現在の辻村組組長である杉浦儀一の言葉から、初代駿河会会長が俊輔の父親なのであろうことは推察していた。
 何らかの理由があって、俊輔の母親が彼と恋仲に ―― 恐らくそれは、とてつもなく激しい恋であったのだろう ―― なったのであろうことも、また。

 しかし現時点ではその何もかもが、稜の想像の域を出ていない。
 それは全て、俊輔の口からではなく俊輔の周りの人間たちの言葉を聞いて、稜が憶測した事実に過ぎなかった。

 訊いてみたいとは思う。
 だが訊いていいのかと、躊躇う気持ちもかなり強かった。

 稜の知らない、俊輔のこの10余年。
 それは恐らく、語る方にとっても聞く方にとっても、身を切られるなどという言葉では言い表せない、壮絶なものであったに違いない。

 そう、稜は今でも、俊輔が自ら進んで、望んで、ヤクザの世界に身を投じたなどとはこれっぽっちも信じていなかった。
 つまり俊輔にそれを決心させるだけの何かが、そこにはあったのだ ―― それは想像などではなく、はっきりとした確信だった。

 疑問に思ったことを何でもかんでも聞いてしまえる気楽な時代は、遥か遠くに過ぎ去っていた ―― それは俊輔にとっても、稜にとっても。
 俊輔が知らない稜のこの10年も、決して気軽に自ら語り出そうと思うようなものではなかったのだから。

「・・・“謝る気はあまりないけど”って?」
 聞きたい質問を全て綺麗に飲み込んで、稜は軽い口調を作って言った。

「そうそう、口先だけ、一応な」
 稜の誘導に乗って、俊輔も稜と同じような口調で言った。

「それで、お前、いつからこっちに来る?」
「経堂のマンションを解約したらって話なんだから、解約しないなら今まで通りでいい」
「おいおい、ぬか喜びさせておいてそれかよ。一度口に出したからには、責任をとってこっちに来い」
「どんな責任だよ。大体そもそもの始まりは、相談だっただろう」、と稜が言う。
「つべこべ言わずに来い。その方が何かと便利だし」、と俊輔が言う。
「いや、そんなの勿体ないし、時々でもちゃんと帰ることにする ―― って、うわ、何なんだよ、突然!」

 そこで勢いよくソファに引き倒された稜が、喚いた。

「つくづく懲りない奴だよな、お前は。
 それとも何か、こうやって無理矢理肯定させられるのが好きなのか?」
「そ、そんな訳あるか、やめろって・・・!!」

 にやにやと笑いながらのしかかって来ようとする俊輔を、稜は強く押し退けようとする。
 が、時刻は23時を過ぎており、既に入浴を済ませてバスローブ姿だった稜は、どんなに必死で抵抗しようと圧倒的に不利だった。

「待てって、ちょっとお前、と、とにかく風呂くらい入って来い!!」

 バスローブの前が否応なしに開かれてゆこうとするのに渾身の力で抵抗しながら、稜が叫ぶ。
 それを聞いた俊輔はそこでぴたりと手を止め、
「・・・ふん、そうだな、分かった。お許しも出たことだし、とりあえず風呂に入ってくる」
 と、言って立ち上がった。

「・・・何も許した覚えはないんだけど」
「何を言う、とにかく風呂に入ってきさえすれば好きにしていいって、言っただろうが、今。運よく明日は日曜だし、丁度いいよな」

 窺うような視線を送ってくる稜を見下ろして、俊輔が言い放ち ―― 一瞬赤くなった稜の顔色が、次の瞬間、微妙に青ざめる。
 顔色と切り返しの言葉、双方を失った稜を面白そうに見下ろした俊輔が、乱暴にネクタイを緩めながらリビングを出て行く。

 その後姿を見送った稜は、すぐさま着替えて経堂に逃げ帰るべきではないかと、暫し、かなり本気で悩んだのだった。