32 : 薬指の誓い
いくつかの相違点はあるものの、その後稜には1年前と同様の生活が戻ってきた。
最大の相違点は、勤務先が虎ノ門からつくば市に変わったことだろう。
だがこれは稜自ら希望を出したことなので、問題はなかった。
次の相違点は稜が帰宅する先が常に俊輔のいるマンションになったことだ。
稜名義のマンションが都内にあることはあるらしいが、稜はそこに行ったこともない。
勿体のない話だが、俊輔と暮らすこと自体は一度稜の方からそうしてもいいかと訊ねたことがあるくらいで、特に文句を言う気はなかった。
しかし通勤は辻村組の舎弟が運転する車でしてもらいます。と三枝に言われたのには、抗議せずにはいられなかった。
以前にも稜は、同様の通勤方法を俊輔に強要されたことがある。
数週間という短期間ではあったが稜はその間、誰かに見咎められるのではないか、おかしく思われるのではないか、問い質された場合になんと答えるべきか、などなど、日々本当にあれこれと気を遣い、思い悩んだものだ。
あの時は誰にも何も言われずに済んだが、ああいった状況が今後無期限で続くとなると ―― 考えただけで胃が重くなる。
この件に関して、三枝と稜は殆ど喧嘩をするような勢いで言い争ったが、三枝は稜の言うことにはまるで耳を貸さなかった。
いや、耳を貸すどころか三枝は最後に至っては、
“本来でしたら会社など辞めて頂きたいのを、譲歩しているのですよ、この私が”
などと胸を張って言い切り、文句を言う気も失せ果てた稜は結局、唯々諾々と三枝の要求を容れるしかなかった。
と、まぁそんなごたごたはあったものの、時は平穏に、淡々と、過ぎ去っていった。
あの日稜は“きちんと考えて、返事をする”と俊輔に言ったが、その後1ヶ月経っても、2ヶ月経っても、稜はそのことについては一言も言わなかった。
俊輔も、特に何も言わなかった。
稜がそういった約束を適当に忘れてしまえる性格でないことは俊輔が一番良く知っていたし ―― それに正直に言ってしまえば俊輔は、返事など永遠に返ってこなくとも良いとさえ思っていた。
俊輔が求めた回答に対する返答は当然ながら、イエスかノー、どちらかしかない。そこに中間はない。
難しい計算をするまでもなく、どちらの回答がもたらされるか、可能性はきっちり半々となる訳だ。
だが回答を保留にしている間、稜は俊輔の元に留まるであろうし、俊輔も回答を待つ間は稜を手放す積もりはなかった。
50%の確率を有する望まぬ回答を返されるくらいなら、日々微かな不安に脅かされ続けるとしても、回答など得られない方が良いと、俊輔は考えていたのだ。
その日稜が帰宅してみると、マンションには珍しく俊輔が先に帰ってきていた。
リビングのテーブルに置いたノート・パソコンから顔を上げた俊輔は稜を見ておかえり。と声をかけたが、稜は頷いただけで何も言わなかった。
俊輔が続けて、メシは?と訊いたが、それにも稜は何も言わず、黙ってやって来て俊輔の前に立った。
稜の様子を見た俊輔は軽く息をついてノート・パソコンを閉じ、それを脇に押しやってから背筋を伸ばした。
そして改めるように稜を見上げる。
「お前にひとつ、訊きたいことがある」
稜は平坦な視線と声で俊輔を見下ろして、言った。
「・・・どうぞ、なんなりと」、と俊輔は言った。
「この関係を、間違っていると考えたことは?」、と稜が訊いた。
「俺とお前の関係?」、と俊輔が訊き返した。
稜は黙って頷き、俊輔は座っていたソファの背もたれにゆっくりと背中を預けた。
そして言う、「お前への感情が間違っているというのなら、俺は間違っていてもちっとも構わない」
きっぱりと答えた俊輔を稜は黙って見下ろし、そんな稜を真っ直ぐに見上げ、俊輔は続ける。
「ああすれば良かったとか、ああしなければ良かったとか ―― 間違ってばかりの人生だ。
今更そこにひとつやふたつ間違いが追加されたところで、どうということもない」
「・・・なるほど」
と、稜は言った。
その声にはやはり何の抑揚もなく、特にどんな感情も見られなかった。
「 ―― お前は?」
少ししてから、俊輔が訊いた。
「俺か、俺は・・・そうだな、よく、分からない」
小さく横に首を振って、稜は答えた。
「・・・そうか」、と俊輔は言った、「そうか」
そして自嘲気味に笑って視線を伏せた俊輔を無言で見下ろしていた稜がふいに、無造作に、手にしていたものを俊輔に向けて差し出す。
「よく分からないけど、お前にこれをやる」
「・・・なに」
反射的に差し出されたものを受け取った俊輔が、訝しげに訊いた。
「お前の言うところの、女避け」
ぶっきらぼうな言い方で、稜が言った。
「前のは・・・、あの日、とられてしまったから」
そう言われて俊輔は改めて稜の左手の薬指に視線をやり、そこにひっそりと指輪がはめられているのを確認し ―― それから渡された紙袋の中を覗き込み、ゆっくりとした動作でその中から小さな正立方体に近い箱を取り出した。
そして手にした箱をしばらく眺めて見てから、渡されたのと同様のやり方で、それを稜に向かって差し出す。
意味が分からず差し出された箱を受け取った稜に、俊輔が左手を突き出す。
「お前がつけてくれ」
それを聞いてさっと頬に血を上らせた稜が、思い切り顔をしかめた。
「何を言ってるんだ、ふざけるな。子供じゃあるまいし、そんなのつけたきゃ自分で勝手につけとけ」
「いいから、やれよ」
「何もよくない。そんなこっぱずかしいことをさせられるくらいなら、俺は・・・ ―― 」
「稜」
照れも手伝ってか荒々しく言い募る稜の言葉を遮って、俊輔が稜の名を呼んだ。
そのいつにない厳しい声に、稜はぐっと口をつぐむ。
「・・・お前が覚悟を決めたなら、俺にもそれ相応の覚悟ってもんが必要なんだよ。
適当にお前を引き受けられないだろうが ―― ほら、早くしろ」
俊輔の口調は一見、いつも稜が眉を顰める、上から押しつけるような命令口調であった。
だがその芯の部分にどうしようもないほどの真剣さがあるのを察した稜は、それ以上の抗議が続けられなくなる。
しかめ面のまま稜は盛大にため息をつき、それから情緒も何もないやり方で小箱の蓋を引き上げ、取り出したヴェベット張りのケースの蓋を開け、粗野ともいえる動作で取り出した指輪を乱暴に俊輔の指にねじ込む。
そして憮然とした表情のまま、そそくさとその場を後にしようとした稜の手を、俊輔がきつく掴んだ。
「多分・・・いや、絶対に、相当きつい思いをさせることになると思う ―― 色々な面に於いて」
と、俊輔は低い声で言った。
「しかし例えこの先何があろうとも、俺が必要としているのはお前だけだ。他の何がなくなったとしても、お前がいればそれだけでいい ―― これだけは絶対だ。信じろ。いいな」
引っ込みがつかずに表情を歪めたまま、稜は頷いた。
そんな稜を射るように見つめた俊輔が初めて、真面目な表情と声音で告げる、「お前を、愛している」
そのまま見詰められ、どうにも間が持たなくなった稜はたどたどしく俊輔から視線を外した。
俊輔は何も言わなかったが、視線を稜から逸らしもしなかった。
横顔に痛いほどそれを感じる稜は、頑なに視線を外していてもなお、どうにも居たたまれなくなる。
他の場所に逃げてしまおうにも、俊輔の手に強く左手を掴まれた状態では逃げられもせず ―― やがて稜は観念したように一度目を閉じてから、俊輔に視線を戻した。
そして取って投げるように言う、「“俺も”」
その言葉は1年前に俊輔に対して言ったのと字面的には、全く同じだった。
しかしその言い方も、雰囲気も、言葉の強さが纏う色も、言葉が指し示す方向性も、1年前とは何かが、ほんの少しずつ、違っていた。
俊輔はふいに、ニール・アームストロングの言葉を思い出す ―― これは1人の人間にとっては小さな一歩だが、・・・、というあれだ。 人類で初めて月に降り立った時に彼が口にしたという、有名な言葉。
アームストロングは本当に月面に降り立ったのか、そもそもあの映像は本当に月面上で撮影されたものなのか。
真偽のほどは定かではないが、何にせよ、変化というのはそれが大きいものであろうが小さいものであろうが、ほんの些細な一歩から始まる。
宇宙に浮かぶ惑星上での一歩に於いても、人の感情が動いてゆくその課程に於いてでも、それは変わらない。有り難いことに。
俊輔は握った稜の左手の薬指にある硬質な輪の形を、親指の爪で一度なぞった。
それから稜に倣うように、1年前に自らが口にした言葉を繰り返す。
「・・・満足ですよ」
そして俊輔は本当にどこか満足げに、そっと、微笑んだ。
―――― NIGHT TRIPPER Act.2 END.
to be continued Act.3 ...