31 : 重力の糸
「ああもう、俺、本当に絞め殺されそうだな・・・」
なかなか収まらない呼吸の中から、冗談ばかりではない、と言った口調で俊輔が呟いた。
それを聞いて、稜は笑う。
「そんなの、いちいち報告しなきゃいいだけじゃないか」
「あのな・・・、相手はあの三枝だぞ」
力ない口調で俊輔は言い、ため息をつく。
「あいつの勘というか観察眼の鋭さは、ちょっとしたシャーマンみたいなんだよ」
「シャーマンって」
と、稜は言った。そして再び笑った。
「まぁ、言っていることは何となく分かる気はするけど・・・でも命懸けで守っている相手を自ら殺さないだろう」
「・・・命懸け?なんだ、それ?」
「俊輔に命を懸けているんだって言ってた、さっき」
「ここへ送ってきた時か?」
俊輔が訊き、稜は頷く。
「そう ―― ああ、そういや続けて、今後は俺にもそうするとか言ってたな・・・、あれ、本気なのかな・・・」
ぶつぶつと稜が言うのを聞いて、俊輔は稜の肩に埋めるようにしていた顔を上げる。
その顔は驚いたような、呆れたような、感心したような、複雑な表情に彩られていた。
「おい、三枝は間違っても、冗談でそんなことを口にする奴じゃないぞ。
伊織だけじゃなく三枝までもかよ・・・ったく、お前、どれだけ人たらしなんだ」
「人たらしって何だそれ、人聞きの悪い。たらしてなんかいない」
首を曲げ、間近で俊輔を睨みつけて、稜は抗議する。
「ほら、そこだよ」、空恐ろしげに、俊輔は言った。
「そこってどこだよ」、憮然として、稜は言った。
「いいか、明確な意志を持って人をたらし込むのは詐欺師だろうが。お前みたいに無自覚なのを人たらしって言うんだ」
きっぱりと決めつけるように俊輔が言った論理に反論の余地を見いだせず、稜は黙った。
そして少しの間考えてから、ゆっくりと口を開く。
「あのさ、ところで・・・、相良さんって、もしかして、お前の・・・?」
慎重に言葉を選ぶような稜の言い方を聞き、多くを聞かないうちに稜が何を知り、何を訊こうとしているのか理解したのだろう。
俊輔は稜が拍子抜けするほどあっさりと頷き、
「ああ、あいつは俺の腹違いの兄だ。
駿河麗子の所行に恐れをなしたあいつの母親は、産んだばかりの子供を置いて本家を出たらしい。伊織は俺が偶然見つけるまでずっと、本家の離れにある地下で駿河麗子と金山に“育てられて”いた」
と、さらりと答えた。
予想通りの事実と、次いで知らされた予想外、想像外の事実に、稜は顔をしかめて唇を噛む。
相良伊織の俊輔に対する盲目的、ある意味病的な忠誠心。
駿河麗子が口にする俊輔への執着と、相良伊織に対する執着の類似性。
そしてさらりとした言い方ではあったものの、苦々しく嫌悪に満ちた俊輔の口調。
それらを見聞きしただけで、相良がどういう立場で、どんな“育てられ方”をしたのか、見えてくる気がした。
重苦しく黙り込んでしまった稜を、俊輔は薄い微笑を浮かべて見下ろす。
「今の話・・・俺と兄弟だって、伊織から聞いていたのか?」、と俊輔が訊いた。
「ん・・・、いや、はっきりした事は何も聞いてない。でも、何となく・・・っていうか」、と稜が答えた。
「何となく確信を持てるくらいのことは聞いていた訳だ、あの伊織から ―― いやはや、本当にお前はとんでもないな」
呆れた、という風に首をすくめた俊輔が、そこで唐突に激しく、稜の唇を奪った。
そして深く穿ったままになっていた稜から、ゆっくりと出てゆく。
「 ―― ぅ、ん、ンんん、・・・っ・・・」
敏感になった粘膜が擦れる感覚に、唇を塞がれたままの稜の喉奥から、押し殺された喘ぎ声が漏れた。
「・・・だからお前、その声やめろって言うのに・・・」
唇を離した俊輔が言い、そのまま稜の隣に仰向けに身体を横たえた。
そして、落ち着くまで待ってみても意味ないのか・・・。とぶつぶつ呟きながら、ベッドサイド・テーブルに手を伸ばす。
「・・・“止め処がなくなる”?」
セブン・スターのケースを探してテーブルの上で手を彷徨わせる俊輔を横目で見ながら、稜が言った。
「まぁな」
指先に触れたセブン・スターのケースを取り上げて、苦笑混じりに俊輔が言った。
その返答を聞いた稜は無言で、絡んだままになっていた俊輔の足を自らのそれで小さく引き寄せる。
そして言う、「・・・じゃあもう一度」
俊輔は数秒の間、石化されたように固まってから ―― 恐る恐るという風に稜を見 ―― 稜の表情から耳にした言葉が聞き間違いでも空耳でもないことを知り ―― 最後、力無く首を横に振った。
「・・・お前は一体、俺をどうする気なんだよ?」
どことなく冗談めかして俊輔は言ったが、稜は黙って俊輔を見ているだけで、何も答えなかった。
どうしてこんなにも、俊輔を感じたいと思うのか。
その問いに対する明確な答えは、稜自身も持ち合わせていなかった。見当すらつかなかった。
1年に及ぶ逃亡生活の中、自覚ないまま禁欲生活を送っていた所為もあったかもしれない。
俊輔への気持ちをきちんと見定めたという、高揚感にも似た衝動もあったかもしれない。
今までの人生で想像すらしていなかった暴力に晒されかけた所為もあったかもしれない。
そういった理由なら、捻り出そうと思えばいくらでも捻り出すことが出来る。
が、それらをつき合わせて考えてみれば、行き着くところはただひとつだった。
そう、稜は純粋に、今この瞬間、俊輔がきちんと生きて呼吸しているのだという事実を、どうしようもないくらいに色濃く、濃厚に、確認したかったのだ。
そして自分に関しても同様のことを、俊輔の手できちんと確認して欲しかった。
“もし重力というものがなかったら、地球上にある全てのものは宇宙空間に飛ばされてしまう”
そんな文章をかつてどこかで、読んだことがあった。
ある意味自分はこの身体を繋ぎとめている“重力”をきちんと見て、感じたいのかもしれない、と稜は思う。
ちっぽけな自分という存在が、どこか適当な場所に吹き飛ばされて、跡形もなく消されてしまう前に。
送られてくる稜の視線の中に、何か感じるものがあったのだろう。
表情を改めた俊輔は手にしかけた煙草を放って稜を引き寄せ、その首筋や肩口に軽く唇を寄せてゆく。
皮膚の下に官能の残り火がくすぶっているような状態だった稜の身体は、軽い俊輔の愛撫にもすぐに色濃い反応を示し始める。
「・・・なぁ、稜」
稜の息が微かに上がり始めた頃、俊輔が言った。
呼びかけられた稜は閉ざしていた目を上げて、俊輔を見る。
「もう二度と、俺から離れるな」
見上げる稜を見下ろして、俊輔は言う。
稜は黙って俊輔を見上げ続け、そんな稜を真っ直ぐに見据えたまま、俊輔は続ける。
「これから一生、ずっと、俺の側にいろ。いてくれ」
それから長いこと、稜は無言で俊輔を見上げていたが ―― やがて再び、ゆっくりと視線を伏せる。
「・・・考えておく」
と、稜は言った。それを聞いて、俊輔は少し笑った。
「お前らしいな、その返事」
と、俊輔は言った。
「流れ的に言って、ここは肯定して盛り上がる場面じゃないか?」
からかうような口調で言った俊輔を、稜は再度視線を上げて見上げ、
「こんな重要なことを“流れ”で適当に答えられて、お前はそれでいいのか?」
と、静かに訊いた。
稜の視線にも口調にも、感情の波は少しも見られなかった。
しかし稜の視線の硬質さと口調の平坦さ、続く静けさにはどこか、侵しがたい雰囲気があった。
軽口を訂正することも、それを謝罪することも ―― 呼吸することすら、憚られるような。
「きちんと考えて、返事をする。待ってろ」
しばらく後で、稜は言った。
「 ―― 了解」
ただ一言、俊輔は言った。
そしてそれ以降、俊輔も稜も無言のまま、部屋に朝の光が射し込むまで、幾度も抱き合った。
空白の時を少しずつ埋めてゆくように、重力の糸の存在をひとつひとつ、手探りで確かめるように。