これまでの人生で俺は、この日ほど自らの外見に気を配ったことはない。
何に賭けても、それだけは断言できる。
だがそれは、普段より自分を良く見せようとか、そういうよくある方向性に向いた努力ではなかった。
いかに普段通りに見せるか。
いかに昨日と何ら変わった所はないように見せるか。
つまりいかに何もなかったように見せるか。
今日の主題・命題の全ては、最初から最後まで、そこだけに特化していた。
そしてそれは今のところ、完璧に上手く行っているようだった。
今朝顔を合わせた時にも三枝は特別な反応を示しはしなかったし、それ以降も特に何も言わなかった。
むろん気は抜かなかったが(油断は出来ない)、それでも夜になり、昨日一日の上がりの報告やら、幹部それぞれの報告やらを聞く頃には、心底ホッとした。
あくまでも内心のみでだが、やり切ったぜ、という達成感すら感じた。
いつか女子マラソンの選手が言っていた、
“自分で自分を誉めてやりたい”
という言葉が、しっくりと心に沁みてくるようだった。
「 ―― 私の方からは以上です。
他に何か報告すべき事など、ありますか」
と、三枝は手にしたファイルを開いたまま顔を上げ、居並ぶ幹部たちを見回した。
誰も何も言わないのを確認してから、三枝は音を立ててファイルを閉じ、
「それでは今日はこれで解散ということで ―― ああ、そういえば、若」
と、後半、何気ない口調で言った。
余りに何気ない口調だったのにつられて何気なく顔を上げた俺に、三枝はにっこりと微笑みかけた。
その微笑を見た瞬間、背筋がざわりと総毛立つ。
「お分かりとは思いますが、少々お話があります。後程私のオフィスへいらして下さい」
そう言った三枝は固まったようになって答えられない俺に再度微笑みかけ、少しも足音をたてずに自分のオフィスに繋がるドアに向かった。
そしてドアノブに手をかけたところで、
「必ず、来て下さいね」
と、言い ―― その後、硬質な音と共にドアは閉められた。
三枝が出て行った後の部屋には奇妙な雰囲気の沈黙が流れ ――――
「あーあーあー、やっぱりな。だから帰るなって言ったんだ」
と、永山がにやにやしながら沈黙を破った。
それを皮切りとするように、他の幹部もにやりと笑って ―― しかしどことなく気の毒そうに俺を見た。
俺はため息をつく気力すらなく、ぐったりと椅子の背もたれに沈み込み、天井を仰ぐ。
「・・・つまり結局、我慢が利かなかった訳ですか」
永山と同じ立場で仕事をしている船井勇冶(ふないゆうじ)が、苦笑混じりに言った。
「・・・いや・・・」、と俺は言う。
「いやって、じゃあ、何もなかったんですか」、と船井が言う。
「・・・いや・・・」、と俺はぼんやりと繰り返す。
「どっちなんですか」、と船井が笑う。
「何もない訳あるか、1年振りだぞ。だから止めたんですよ、顔を見るだけで済む筈がないんだ」
と、永山が言い、居並ぶ幹部やその補佐たちが“その通り”という風に一斉に頷いた。
でも本当にそのつもりだったんだよ、と俺は言う ―― 心の中だけで。
誰も信じないのは分かりきっていたので、口に出しては言わなかった。
稜は“俺に襲われて逃げられなかったって、言っておけば”などとふざけたことを言っていたが、そんなことを言えば立場は更に悪くなるのも目に見えている。
実際昨日、俺は抵抗出来るだけは抵抗したつもりだったし、事実その通りだったと思う。
だが結局結末が同じなのであれば、課程など関係ないと言われれば俺に反論の余地は微塵もない。
それは紛れもない事実だ、それは認める、けれども、・・・・・・
「何はともあれ、殺されることはないでしょうから」
と、船井が微妙な慰めの言葉を口にした。
「おいおい、そんな希望的観測みたいなことを適当に言っていいのかよ、船井」
と、永山が追い打ちをかけるように言って、にやりと笑う。
「今じゃインテリチックな外見を取り繕っているが、とどのつまり、あいつは元ヤンだからな。キレると怖いぞ」
「・・・豪さん・・・、ヤンキーって死語です」
と、それまで黙って幹部たちの話を聞いていた幹部補佐の一人、甲斐貴弘(かいたかひろ)が言った。
「うるせぇよ、でも昔のあいつを見たら、正にヤンキーとしか表現出来ないと思うぜ。壁に“四露死苦”とか書き出しそうな感じだったもんな」
「三枝さんがですか?」
と、甲斐が目を丸くし、永山はそれを見て空中で右手を振った。
「いや、あいつ自身はそんなアホなことはしてなかっただろうけど、雰囲気だよ、飽くまでも。雰囲気。
昔から頭のいい奴で、それを見込んで俺から声をかけたんだけどさ・・・初めてあいつが髪の毛直してスーツ着てきた日にゃ、思わず爆笑しちまったもんな」
「爆笑・・・」、と空恐ろしそうに首を竦め、船井が呟く。
「そうそう、それで怒らせちまって。その後半年、三枝は俺と一切、口を利かなかった」
「・・・はぁ・・・」
聞いていた幹部やその補佐たちはそこで、感嘆めいたため息を漏らす。
普段軽い口調で気さくな永山ではあったが、彼が駿河会幹部だった頃の逸話は聞くだけで背筋が凍るようなものが多かった。
その各逸話の真偽のほどはともかく、いざというときの彼の恐ろしさを知らない者は、辻村組内にはいない。
その彼を半年以上も無視し続けるとは ―― 全く信じがたい話であった。
「つまり何が言いたいのかっていうと、うちの幹部・舎弟の中で、一番恐ろしいのは間違いなく三枝だって話さ。キレると何をし出すか分かったもんじゃない。三枝がもし本当にキレたら、俺にも止められないだろう。
だから何があろうと、三枝だけは怒らせるなよ」
「・・・おい、永山・・・お前な・・・」
そこでようやく言葉を発することの出来た俺は、呟く。
そんな俺を見て、永山は微かに笑った。
「大丈夫ですよ、今回はそこまではキレないはずだ。精神的半殺しにされる程度の覚悟は必要でしょうが」
「・・・慰めになってない」
「そりゃあそうです、慰めてないですから」
と、永山は悪びれもせず言い放つ。
「GOOD TIMES BAD TIMESってね、ロバート・プラントも歌っていましたし、まぁ、いい思いをした分大変なこともあるってことで、頑張って切り抜けて下さい」
永山が言ったところで、三枝が入っていったドアが、向こう側から叩かれた。
小さな音で、3回。
「 ―― お呼びですよ」
と、永山が言い、座っていたソファから立ち上がる。
それを合図とするように幹部も立ち上がり、一礼の後に次々と部屋を出てゆく。
最後に部屋を出て行きかけた永山がドアの所で振り返り、俺に向かって何かを放って寄越した。
反射的に受け取ったそれは、煙草のケースだった。
永山が普段、好んで吸っている煙草 ―― LUCKY STRIKE。
その黒いゴシック・ロゴを確認して顔を上げた時にはもう、永山の姿はドアの向こうに消えていた。
何度目になるのか分からないため息をつきながら、俺は“幸運の差し入れ”という名の煙草の封を切り、取り出したその先に火をつける。
2口目の煙を肺に吸い込んだ時、再びドアが叩かれた。
やはり、3回。
俺は天井に向けて細く煙を吐き出し、3口目の煙を吸い込み、それを丁寧に灰皿でもみ消す。
死刑執行直前に煙草を吸わせてくれるのは、どこの国の話だっただろうか?
思い出せないが ―― 何となく、最後の煙草を吸う際の人間の気持ちが分かるような気がした。
吐き出す煙にため息を混ぜ込みながら、俺はゆっくりと立ち上がる。
そして執行人がその向こうで待っているドアへと、足を向けた。
―――― NIGHT TRIPPER番外編 LUCKY STRIKE END.