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昔から、銀座はレヴェルの高いバーの多い街だ。
格式や格調が高いという意味ではない。
鼻持ちがならないという意味でもない。
一見さんお断りという雰囲気があるという意味でもない。
だが ―― 何というのだろう、バーに行き慣れていない、飲み慣れていない客は雰囲気で撃退されてしまうような、“ここはもう少し『修行』を積んでから入るべきだろうな”と、無意識に客が自らを選定し、身を引かせるような、そんな確固たるスタンスを漂わせている店が多いのだ。
そんな店のひとつ、銀座の路地裏の寂れたビルの地下にひっそりと店を構えているバーにその日、稜はいた。
店には7人も座れば一杯になってしまう一枚板のカウンターに、2、3人掛けのテーブルが3つ置かれている。
奥のテーブルには2人組のカップルが、真ん中のテーブルには1人の男性客がおり、カウンターには稜しかいなかった。
カウンターの上にはショット・グラスに注がれた10年もののアイリッシュ・モルトとナッツの乗った黒い小皿が置かれている。
この店は基本的に酒しか出さず、つまみはミックス・ナッツしか出されない。メイン・バーテンダーであるオーナーの機嫌がいいとそこにドライ・フルーツが添えられたりもするが、それも滅多にない。
店の開店時間もまちまちで、メニューすらない ―― 本当にあらゆる意味で自由なバーなのだ。
そしてもう何年も前からこの店のその雰囲気が、稜は好きなのだった。
オーナーのモルトに対する造詣が深いところももちろん、気に入っていのだが。
カウンター向こうの棚のモルト瓶の羅列を、ぼんやりと、見るとはなしに見ていた稜の隣に、ふいに誰かがやって来て座った。
待ち合わせていた俊輔からはつい先ほど、組の方で少しばかり問題が起きたので1時間ほど遅れる。という連絡が入っていた。
言っていたよりも随分早いな。と思いながらそちらを見た稜は、隣に座った人物を見て軽く目を見開く。
ヴェルベット張りのスツールに腰掛けて稜を見ていたのは、本来ここへ来るはずになっている俊輔ではなかったのだ。
「お久しぶりね」、と駿河菖蒲が言った。
「・・・そうですね」、と稜は言った。
「随分と大変だったみたい。いろいろ」、と菖蒲は笑う。
「そうでもありません、とはとても言えないですね」、と稜も笑う。
「 ―― なぜここに?」
笑いが収まってから、稜は訊いた。
菖蒲は紅く塗られた唇に美しいカーブをつけて見せただけで、答えなかった。
そこへオーナーが静かにやって来て、菖蒲の前におしぼりと、厚紙で作られたコースターを静かに置いた。
「・・・オールド・ファッションドの、果物は何を?」
と、菖蒲はオーナーに訊いた。
「ライムとレモンと、オレンジです」
と、オーナーは答えた。
「じゃあライムは薄目に、オレンジをその分厚めにして下さるかしら」
「かしこまりました ―― ベースはバーボンでよろしいですか」
「ええ」
「銘柄のご指定は?」
「任せるわ」
頷いたオーナーがその場を去ってゆく背中を見送ってから、菖蒲も稜がしていたのと同じように、カウンター向こうのモルト瓶を眺めていた。
「・・・散々お手を煩わせてしまったのに結局振り出しに戻ってしまって、菖蒲さんには申し訳なかったと思っていました」
菖蒲の前にオールド・ファッションドが置かれたところで、稜は静かに言った。
菖蒲はやはり笑って見せただけで答えず、グラスに添えられていた細身のスプーンをライム・スライスとレモン・スライスの間に潜り込ませた。
そしてレモン・スライスとオレンジ・スライスを一緒にグラスの縁に沿って押しつぶし、それからグラスの底に沈む角砂糖を半分崩して小さくかき回した。
「分かっていましたからいいんです、それは」
と、菖蒲は言って手にしたグラスを傾けた。
「・・・分かっていた?」
と、稜は眉を顰める。
「ええ ―― あなたは何がどうなろうと、いつか戻ってこられると思っていました」
「・・・それは・・・、・・・」
「ええ、そうです」
言い淀んだ稜の、口にしなかった言葉をきちんと汲み取ったかのように、菖蒲は頷く。
「誰が何と言おうと、何があろうと ―― 俊輔さまが私と結婚していようがいまいが、あなたはいつか戻られるだろうと思っていました。私は」
そう言った菖蒲は小皿の上のカシュー・ナッツを手にして、それを子細に点検してから半分に割った。
そして右手にした方を口に入れ、左手の方を再び皿の上に戻した。
私は、という部分を強調した言い方をしたので、稜は何も言わなかった。
特に答えを望んでいたのではなかったのだろう ―― 菖蒲は稜が口を閉ざし続けるのを気にする様子は一切見せなかった。
その後2人の間には沈黙が流れたがそれは決して嫌な沈黙ではなく、そこには明らかに、共通の秘密を分け合った者たちのみが共有する独特の気配があった。
店内に流れるエロール・ガーナーの古いジャズ・アルバムの演奏が、流れる沈黙を優しく満たしていた。
「・・・そうですね、確かに、おっしゃるとおりなのかもしれません」
流れる沈黙を破って稜は言い、最初の時よりも丸くなったモルトの匂いを嗅いでから、それを口に含んだ。
「結局のところ、私はずるいのでしょう。
流された振り、巻き込まれた振りをして、相手にもそう思わせておきながら、足は揺るぎなく水の底に着いているようなものだ。進むべき方向はいつだって、自分で決めている」
そこで稜は手を伸ばし、カウンターの向こう端に置かれた陶器製の小さなピッチャーを取り上げた。
そしてショット・グラスの中に注意深く、ほんの少しの水を注ぐ。
濃いアルコールと水が、グラスの中で複雑な形の透明な文様を描いた。