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グラスの中の波紋が収まったのを確認してから、稜は再び一口、モルトを口に含んだ。
水を含ませることで丸みを帯びた芳醇な香りが、胸にじわりと広がってゆく。
菖蒲は何も言わず、カウンターに軽くかけた肘に体重をかけるような格好で稜を眺めていた。
稜は小さく首を回し、そんな菖蒲を見やる。
「これは誰にも言わないでおくつもりでしたが」、と稜は静かに切り出す、「菖蒲さんは全てを察していらっしゃるようですから、あなたにだけは本当のことを言ってしまおうと思います。私はあの1年の間、ずっと、・・・」
そこで菖蒲は素早い動作で手を上げ、上げた手の指先を、言葉を押し留めるように稜の唇にかざした。
かざされた指先は紙一枚の間しか隔てていないほど、稜の唇に近かった。
「それは、言わない方がいいと思います」
菖蒲は言い、小さいけれども鋭くきっぱりと首を横に振った。
「私が察していようがいまいが、どうであれ、それは恐らく、人に言うべきことではないでしょう。
いいですか志筑さん、言葉というものは心から解き放って口に出した瞬間から、嘘になる可能性を孕むのです」
稜は言おうとした言葉を飲み込んで小さく顔を伏せ、目を閉ざして静かに深呼吸をする。
その稜の額と瞼に落ちかかった前髪を、菖蒲の指がゆっくりと優しく、後ろに払うようにした。
微かに額に触れた菖蒲の指先は、大切にかしずかれて育った者だけが持つ、ふんわりとした柔らかさとしなやかさがあった。
「・・・無防備すぎてさぞかし心配なことでしょう、でも ―― そこがある種、麻薬的な魅力なのね、きっと・・・、正に痛し痒しというところかしら」
と、ふいに菖蒲が言った。
何を言われているのか分からず、稜は顔を上げた。
菖蒲は稜が目を閉じた時そのままの格好で稜を見ていたが、稜が顔を上げるのと同時に喉を反らすようにして後ろに視線を流した。
「・・・どうも思いもかけないところで会うものだ。
つまり今日のあのごたごたは、あなたが仕組んだことだったのかな」
いつの間にやって来ていたのか、そこに立っていた俊輔が、無表情に言った。
「何のことを言っているのかしら。さっぱり分からないわ」
艶やか、というのにふさわしい笑いを見せた菖蒲が、くるりとスツールを回して床に降りた。
鋭く尖ったハイヒールのかかとが、木製の木の上で小気味良い音を立てる。
「それでは志筑さん、今日はこの辺で。
お話出来て、とても楽しかったわ。機会があれば、また是非ご一緒しましょう」
「・・・あ、はい」
勢いに押し切られるように頷いた稜にひらりと手を振り、俊輔にはからかうような一瞥を投げて、菖蒲が去ってゆく。
稜がここに来るより前から店にいた、テーブル席の中央に座っていた男がそれと同時に立ち上がり、追いついた菖蒲の肩に薄手のカーディガンを掛ける。
「・・・あの人、本家の人だったんだ」
男の後ろ姿を見送りながら、雰囲気じゃ分からないものだな。とひとりごちる稜を、俊輔はどことなくうんざりした目で下ろしていた。
次いでカウンターの上、菖蒲の飲みかけのオールド・ファッションドを見た俊輔は更にうんざりと顔を歪め、
「あの女、金払わないで帰りやがった・・・」
と、ため息混じりに呟いた。
「眠ってるのか、それとも気を失っているのか」
俊輔が身体を離していった時のまま目を閉ざしていた稜に、俊輔が言った。
「・・・どっちも不正解」
目を閉じた状態で稜は言い、それから薄く目をあけて俊輔を見た。
俊輔は手にした煙草を一口だけ吸って、それを灰皿に置いた。
恐らくそれはそれ以上吸われないのだろうと稜は思い、実際それはその通りになった。
「菖蒲に、何を言われた?」
一応訊いておこうか、というような口調で俊輔が言った。
稜は少し考えてから、
「・・・いや・・・、特には何も」
と、言った。
言いたくなかったのではなく、菖蒲と話した内容はその課程から結論まで、全ての輪郭がぼんやりと曖昧すぎて説明がし辛かったのだ。
「 ―― ああでも、菖蒲さんが注文していたあのカクテルはちょっと美味しそうだったな。今度頼んでみよう」
そう言った稜を、俊輔は複雑な表情をして見下ろし、
「お前はいつもそうして、肝心なことは何も言わないんだろうな」
と、言い、ぎりぎりまで光量を絞ってつけられていた枕元のライトを腕を伸ばして消した。
そしてその腕で、返答に窮している稜を抱き寄せる。
「もう眠れ」
少し後で、俊輔が言った。
「・・・ん・・・、お前は?」
抱き寄せられるのに逆らわずに、稜が言った。
「お前が眠ったら眠る」
稜の耳元に唇を寄せた俊輔が、低く掠れた声で、囁くように言った。
その声を耳にした刹那、胸に沸き起こった感情を、一体どんな言葉で表現すれば良いのか ―― 稜には分からなかった。
幸せ、というような単純な言葉では、到底言い尽くせない複雑なものが、そこにはあった。
暫くの間考えてみたが、しっくりとした言葉がまるで見当たらず、稜は諦めて目を閉じる。
目を閉じると、アルコールの気配と情交の後の気だるさが、一気にその濃度を増すのが分かった。
暗闇の中、稜が目を閉ざしたのを的確に察したかのように、俊輔がそっと瞼に口付けてくる。
その唇の温かさと甘さを、稜は夢と現実の狭間で感じていた。
いいですか志筑さん。
言葉というものは心から解き放って口に出した瞬間から、嘘になる可能性を孕むのです・・・ ――――
菖蒲が言った言葉が、ふと思い出される。
でも菖蒲さん、例えそうなのだとしても、と稜は思う。
そうであったとしても、言えなかった、掴み切れなかった想いの片鱗だけでもいいから、それを俊輔に伝えてみたい、いつの日か。
それが嘘になってしまうのだとしても、そこに一瞬であっても真実の欠片が含まれるとしたら、俊輔はきっと、それすらきちんと見て、察してくれるだろうから、・・・・・・。
だが襲い来る強烈なまでの睡魔が、稜にそれ以上思考を続けることを許してはくれなかった。
眠りは上から音もなく舞い降りてきて、嘘にも言葉にもならなかった稜の思いをその意識もろとも、深い闇の中へと沈めていった。
―――― NIGHT TRIPPER番外編 ルシアンの夜 END.