Night Tripper

1 : 希望の言葉

 その部屋は、冷え冷えとした空気に満ちていた。

 凍えるというほどではないが、居心地は酷く悪い。
 エアー・コンディショナーが室内に質の高い空気を送り出しているはずなのだが、それはあまり役に立っているようには思えなかった。

 空気は重苦しく、部屋にあるキャビネットや応接セットの類がまるで、太い杭で固定されているように見えた。

 ―― それは調度品だけじゃないけどな、と稜は応接セットのテーブルを挟んで向かい合っている三枝の顔を眺めながら思う。

 そう、まるで自分の身体まで床に縫い止められている気分だ。
 二度と立ち上がれないのではないかとすら思う。

「来年のごく早い段階で、組長は駿河会の会長に就任することが決定しています」
 重苦しい沈黙をものともせず ―― 少なくとも稜にはそう見えた ―― 三枝は言った。
「・・・それは知っています。何度聞いたか分からないくらい、聞きましたから」
 うんざりとした素振りを極力見せないように努力しながら、稜は答えた。
「そうですか、それは良かった」、と三枝は答える、「ついでに言わせていただければ、私の方は回数もはっきり覚えています。8回です。これまでに8回、あなたにこの話をしました。つまり今回で9回目です」

 稜は答えなかった。
 三枝はソファの背に軽くもたせていた身体を起こし、テーブルの上に置いた煙草のケースから取り出した煙草を、くるりと器用に指の上で回した。

 その間、視線はちらとも動かなかった。

「その9回とは別に、私はこれまで再三にわたって、会社を辞めていただきたいという希望をあなたに伝えてきました」
「・・・希望」
 と、稜は無感動に繰り返す。
「そう、希望です。希望という言葉は、ある特定の目標に向かう人々の思いやその方向性を、一番柔らかく表現したものですが、もちろん」
 と、三枝は言う。
「違う言い方ややり方も、あるにはあります ―― あなたにそれを行使するつもりはありませんが」
「・・・それも希望なんでしょうね」
 ため息を噛み殺して、稜が訊いた。
「その通りです」
 当たり前だと言わんばかりに、三枝が頷いた。

 稜が俊輔と共に生きてゆくことを決めたあの日から、3年という月日が経っていた。
 その間に俊輔は辻村組の組長となっており、それがその親団体である駿河会の会長になる為のステップだというのは、稜も理解はしている。

 だが“だからお前は仕事を辞めろ”と言われても、すんなり納得出来るものではなかった。
 それとこれとは違う話だろうという気もするし、何より稜は、俊輔の人生と自分の人生の線引きはきちんとしておきたいと思っていた。
 俊輔と共にいることはやぶさかではないが、それを一緒くたにして考えられては困るのだ。

 現駿河会会長である佐藤要が、“俊輔の愛人は、つくづくと厄介だな”などと言っている、という噂を耳にして、多少意固地になっている部分もあるかもしれない。
 だがそれだけではなく、やはり稜としては俊輔とは出来る限り対等でいたいという譲れない思いがあった。

 仕事を辞め、日がな一日家で俊輔の帰りを待ち、全てを俊輔に委ねる ―― そんな人生は、完全にヒモのそれじゃないか、と稜は苦々しく思う。
 そんなのはプライドが許さない。

 俊輔は稜が仕事をしていようがしていまいが、何一つ変わったりはしない、それは分かっている。
 きっと、おそらく、いつか辞めなければならない日がくるだろうことも、頭では分かっていると思う。

 でもだったら今やめてもいいだろう、という問題でもないのだ。
 まだ早い ―― 少なくとも現時点ではまだ時期尚早であると、稜は思っていた。
 許される期限がすぐそこまで迫っているのだとしても、そのギリギリまではあらゆる面で自分一人で立っていたかった。

 そんな稜の様子を無表情に眺めていた三枝はやがて、ため息をついて手にした煙草に火をつける。
 そして吸い込んだ紫煙を右斜め上に、細く吐き出した。

 部屋に満ちていた空気の圧力が、少しだけ緩んだ。

「私の言い方が、あなたをそうやって頑なにするのでしょうね」
 三枝は呟き、一口だけ吸った煙草を丁寧に灰皿に押しつけて消した。
 稜は少し笑う。「それだけではありませんが」

「・・・確かに現段階で、すぐに危険があるとは思いません」
 再びため息をついて、三枝は言う。
 そしてスーツの袖口から覗くワイシャツの面積を、注意深いやり方で調節した。
「通勤の行き帰りや何らかの用事で外に出る際、あなたは必ず護衛をつけさせてはいます。しかし当然ながら拳銃で狙われたりした場合、100%護りきれるとは言い難い」
「そういう危険があるのですか?」、と稜は訊いた。
「例えばの話です」、と三枝は答えた。
「しかしそういった危険の可能性は、会社を辞めたところで同じことではありませんか」、と稜は言った。
「確かにそうです。が、危険の可能性はぐっと減ります。それに ―― それに現状の仕事内容が、あなたの意に添うものであると思えませんし」
 と、三枝は言った。
「あなたが現在、本社で従事していたような大きな案件を手掛けることなく、使い走りというのに近い、雑務レヴェルの仕事しか任されていないのは知っています。
 そのうち本社に戻れるという話があるにはあるのでしょうが、その辞令はなかなか出ない ―― むろん、そうなった理由の殆どを我々が作ったのですから、偉そうなことを言えた義理ではありませんが」

 テーブルの上に置かれていたファイルを手に取った三枝が言うのを、稜はぐったりとした気分で見ていた。

 相変わらずこれ以上はないというタイミングで、人の弱みを突き抉るようなカードを出してきてくれる、と稜は思う。
 そこを突かれては、稜の体勢はますます心許ないものになる。
 そもそも情勢は圧倒的に、稜の方が不利なのだ。

「意に添わない状況に甘んじているくらいなら、身の安全を優先することを考えてくれませんか、と私は言っているのです。
 いいですか、あなたは組長の唯一無二のアキレスなのです。それは延いては辻村組のアキレスであり、更に言えば駿河会のアキレスでもある ―― あなたも本当のところは、分かっているのだと思いますが」
 と、三枝は淡々と続ける。
「確かに仕事を辞めれば何も知らない輩はあなたに関して、好き勝手なことを言うでしょう。しかし我が組の構成員達は皆、あなたの存在意義と挿げ替えの効かない不可侵かつ絶対的な重要性を理解している。それだけではいけませんか」

 そう言った三枝の声音には、いつも漂っている押しつけるようなものではない、願いのような響きがあった。
 それを察したものの、それでも釈然としない稜が口を開きかけた時。

 三枝の部屋のドアが、乱暴にノックされた。