Night Tripper

2 : 幸せのカタチ

「今日はその辺りで、お開きにしておいたらどうだ」

 ノックに次いでドアから顔を出した永山が、言った。

「今、柏木さんから2度目の電話があったぜ。急ぎじゃないとは言ってたが、早めに折り返した方がいいんじゃないか」
「・・・そうですね ―― では志筑さん、このお話はまた今度改めて、ということで」
 と、三枝が言った。

「んじゃ志筑さんは、俺が送って行こう」
 と、永山が言った。

「 ―― 疲れたか?」  辻商事の本社ビルの地下駐車場から車を乗り出したところで、永山が訊いた。
「・・・そうですね、まぁ、それなりに」
 すぐ前を走る車のテール・ランプに向かって、稜は答えた。

 永山はハンドルを握ったまま、ちらりと横目で稜を見た。
 そして一瞬、唇の端を歪めるようにしてから、口を開く。

「仕事、どうしても辞めたくないか」
「・・・辞めないで済むのであれば、それに越したことはありませんね」
 そっけなくそう答えてから、稜は窓枠についた肘で顎を支える。

 赤信号で車が停まり、稜と永山はしばらくの間、フロントガラス越しに横断歩道を渡ってゆく人々を眺めていた。

 実に様々な人々が、左右それぞれの方角へと歩いてゆく。

 右手に大きな紀ノ国屋の紙袋を下げる初老の女性、携帯電話の画面を見たまま器用に人をよけてゆく若い男性、はしゃいで走ってゆく子供の後を追う父親、ひっきりなしに話しながら歩く女性のグループ ――――

 ただ信号を渡っているだけの彼らが、妙に幸せに満ち足りているように見えるのはもちろん、気のせいなのだろうと、稜はぼんやりと思う。
 彼らはただ単純に、青になった信号を横断しているだけで、その瞬間に特別な幸せを感じたりはしていないはずだ。
 普段の自分が、そうであるように。

「埒もない意地を張っているように思われているのでしょうが」
 少し後で、稜が口を開く。
「でも、意地だけではないんです。そういう気持ちがあることを否定はしませんが、それだけじゃない」
「 ―― そりゃあそうだろうな、もちろん。そんな簡単に決心出来ることを求めてるなんて、思っちゃいない」

 静かに、しかしきっぱりと永山は言い、ギアを入れ替えて車を発進させた。
 そしてその後、永山は品川のマンションにまでずっと、無言で車を走らせ続けた。

 だが車がマンション内の駐車場に着き、エンジンを切ったところで永山は改めるような口調で、

「ただ俺たちは、心配しているだけなんだ。心配と言っても突き詰めて言えば組織の安定を考えているだけの、手前勝手な心配なんだが ―― だが少なくとも意地とか厄介とか、そんな風には微塵も思っていない。
 言い方や態度があれだが、それは三枝も同じだ」

 と、言った。

 永山の声の根底に流れるものは、先ほど三枝が稜に“希望”を述べた折の口調に流れていたのと、ほぼ同じだった。

「 ―― 分かっていますよ」

 と、稜は言った。

 あくる朝、目覚めてみると身体がひどく重苦しかった。

 会社の人間の出勤時間とかち合わないよう、相当早めに出勤している稜と、基本的に夜行性と表現しても差し支えないような生活を送る俊輔とでは、生活のサイクルは全くと言っていいほど噛み合わない。

 しかし昨夜はちょうど稜が寝ようとしていたときに俊輔が帰ってきて ―― 後はいつも通り、当然のような流れと勢いでベッドに押し倒された。
 いや、一応、“明日も早いから、勘弁してくれ”と、いうようなことを、言ったことは言った。
 が、これもいつものことだが、こういった場合、俊輔は稜の言葉など殆ど聞きはしないのだ。
 既に言葉を発する労力すら無駄なのでは?という気がひしひしとするが、今日はそれだけではなかった。

 うつ伏せの状態で眠っている俊輔の身体の下に、稜の身体が半分ばかり巻き込まれるようになっていたのだ。
 これで重苦しくない筈がない。

 そもそもこんな状態で眠っていられる自分にも呆れつつ、稜は俊輔を起こさないように出来る限りそっとベッドと俊輔の間から抜け出そうとした。
 しかし結局、半ば強引なやり方になってしまったのだが、それでも俊輔は目覚めなかった。

 ベッドから降り立ち、稜は眠る俊輔の顔を見下ろす。
 俊輔の眉間の辺りには3年前には見えなかった、きつい疲労の影が見られた。

 疲れているのだろう ―― 微かに胸が痛むのを自覚しながら、稜は思う。
 肉体的なものではない、精神的な世界からくる、じっとりと湿度を伴った疲労の気配が、そこにはあった。
 こういった疲労の気配は、俊輔が辻村組の組長に就任してから見られるようになったものだ。

 かつて俊輔は、カリスマ的な存在感でもって組織に君臨し、死んで10年以上もの月日が経過してもなお信奉者の多い父親 ―― 母親を見捨てて見殺しにした父親そっくりの自分の顔を嫌い、影で組織を操ろうとしていた。
 その方法を転換して組織の表舞台に出たのは、稜を選ぶ選択をする自由を勝ち得る為に他ならない。
 最初の頃から一貫して自分の仕事のことに関して稜には一切何の説明もしない俊輔だったが、話など聞くまでもなく、そのくらいの想像はつく。
 そこから生じる細々とした ―― それは繊細なのではなく、ただただとりとめもなく細かいだけなのだろう ―― 問題が俊輔を激しく疲労させているのだろうということも、また。

 もし俊輔が菖蒲さんと結婚していたら、ものごとはもっと楽に、遙かにスムーズに進んだに違いない ――――

 この3年の間に稜は何度も、そのかつてあった可能性について考えた。
 俊輔の生きる世界で微塵も力を持たない自分に比べ、相手が菖蒲さんであれば、俊輔のために出来ることは沢山あったろう。
 考える度に気分が暗くなったが、その可能性の中で何より辛いのは、俊輔もそう考える瞬間があるのではないかと想像してしまうことだった。

 矢継ぎ早に起きる問題に忙殺される最中にふと、あの時別の選択をしていればと、考えることは本当にないのだろうか?
 いや、今現在はないとしても、いつかもっと長い時が経ち、2人の関係が家にある家具などと同等のものになる日が来るとしたら ―― もっと違った、楽な生き方があったのではないかと、俊輔が後悔する日が来るのではないか・・・ ――――

 いつも通りそこまで考えたところで稜は首を振ってため息をつき、音を立てないよう足音を忍ばせてそっと、寝室を後にした。