Night Tripper

35 : 闇の果てに見えるもの

 こういった場合の表現として、どうして自分たちは一つのものになれないのか ―― というような類の文章を、時折見かける。

 だがこの夜の俊輔と稜の情交はいったん滅茶苦茶に溶け合ってから、再び別々のものに別れたのではないかと思われるほど、濃密なものだった。
 文字通り、互いに精液が尽きるほどに交わった果て、気がついてみると時刻は既に明け方に近かった。

 一体何度交わったのか、その中で幾度達したのか ―― 俊輔にも稜にも、皆目見当もつかなかった。

「・・・あー・・・、ごめん」

 全力疾走の直後のような呼吸を繰り返しながら、第一声で俊輔が謝り、ゆっくりと稜から身体を離す。
 崩れ落ちるようにベッドに背中を沈めた稜が、やはり荒い呼吸のなかから、訝しげに眉根を寄せて俊輔を見る。

 一体全体、何を謝っているのか、と言いたげな視線を送ってくる稜から天井に視線を移した俊輔は、
「 ―― うん、いや・・・、当初の予定では、もっとこう、・・・優しくしようと思っていたんだよな。
 それなのに途中で理性が完全にぶっ飛んで、気付いたらこの状態、・・・」
 と、言い訳するようにぶつぶつと言った。
 それを聞いた稜は肩を竦め、
「お前の場合は別にそれ、今に始まったことじゃなく、いつものことじゃないか」
 と、言った。

 その指摘についてしばらく考え込む様子を見せていた俊輔はやがて、にやりと笑ってから首を回し、稜を見る。

「言われてみれば、それもそうだな」
 全く悪びれる風なく、俊輔は言った。
「・・・そこで納得するのかよ・・・」
 力なくため息をついてみせながら、稜は言った。
 そのまま冷たく背を向けようとした稜を、俊輔が伸ばした腕で強引に引き寄せる。

「・・・念のために言っておくが、本当に今日はもう無理だぞ」
 と、稜は言った。
「安心しろ、俺も無理だ。あと1時間くらいは」
 と、俊輔は答えた。そして笑った。

 稜は呆れたといった風に視線を宙に泳がせたが、言葉にしては何も言わず、俊輔の腕から逃れようともしなかった。

「・・・眠れよ」
 少し後で、俊輔がいつものように言う。
「んん、・・・お前、明日・・・っていうかもう今日か、仕事は?ここ、何時に出るんだ?」
 やはりいつものように、稜が訊き返す。
「いや、今日は休む」、と俊輔が答えた。
「・・・立場的にそれ、許されるのか」、と稜は言った、「昨日の今日なのに」
「昨日の今日だからこそ ―― だろ」、と俊輔は言った、「もしも今日のこのこと出ていったりしたら、俺は間違いなく、三枝に袋叩きにされる」

 俊輔のその言葉を聞き、眠そうに半分目を閉じかけていた稜が顔を上げる。

「確か以前は、俺を抱いたら絞め殺されるって言ってなかったか?今回は出ていったら袋叩きなのか、複雑だな」
「そう。実に全く、手のつけようがないほど複雑に屈折した奴なんだ。普段の周りの苦労が、偲ばれるってものだろう」
 至極真面目な顔で俊輔は言い、稜の背中をそっと撫でた。
「そんな訳だから、今日は起こさない。ずっと傍にいるから、好きなだけ眠れ ―― 何もしないからさ」

 最後、冗談めかして俊輔が言い、それを聞いた稜はほんの少し、口元に笑いを浮かべた。
 それから稜はゆっくりと目を閉じ、目を閉じたのと殆ど同時に、すとんと落ちるように眠ってしまう。

 そんな稜とは対照的に、俊輔はその後も全く眠れなかった。

 昨夜起きた事件のせいで精神的に激しく疲労していたし、先ほどまでの激しい情交のために肉体的にも疲労はしていた。
 稜と同様に落ちるように眠ってしまってもおかしくないはずであったが、俊輔の中には眠りの気配は見当たらない。
 俊輔の睡眠を司る泉は、南アフリカの大乾季の真っ直中のように、からからに干上がっていた。

 そんな俊輔の右肩の鎖骨の少し下あたりだけが、静かに繰り返される稜の呼気によって、しっとりと湿っている。
 一見些細に見えるそんなことが、有り得ないほど強い喜びをもたらすものになるのだ ―― そういった事実を、俊輔は今、この瞬間まで知らなかった。

 それは一夜限りのどうでもいい相手に対してでは決して生じなかった感覚であり、感情であった。

 俊輔は安心しきった様子で眠る稜を起こしてしまわないよう、注意深くその身体を抱き寄せて柔らかな髪に鼻先を埋め、その額に口づける。
 そうしながら目の前に広がる、夜明けにはまだ少し時を残した、闇色の世界へ視線をやった。

 そこにはとても静かな、完璧な闇が広がっている。
 夜が明ける直前の、一番闇の濃い時間だ。
 時が進んでゆく様が、はっきりと目に見えるようですらあった。

 まさにこの闇の時間が終る情景を表現したのだろう、ディッケンズが、
“これは闇の敗北ではない。光の勝利だ”
 という簡潔な文章で、朝日が闇を割って射してくる光景を表現していたのを、俊輔はふいに思い出す。

 今後自分が生きてゆく世界において、“光が勝利する”瞬間は決して来ないことを、俊輔は知っていた。

 どこまで行っても、ひたすらに深淵のような闇が支配する世界 ―― その底には至る所に汚く巧妙な罠がしかけられ、周りに広がる暗闇には見たこともない恐ろしいいきものが、やってくるものを誰彼構わず陥れてやろうと、手ぐすねを引きながら潜んでいるのだろう。
 これからも自分はその世界に全身を浸し、生き延びてゆかなければならないのだ。

 しかし俊輔はもう、それらに対する恐怖や躊躇いを感じなかった。

 例えこれから先、身動きがとれないような濃く重い闇の中に入り込まなければならなくなったとしても、そこに永遠に光が射し込まないのだとしても ―― もう恐怖を感じることはないだろう。
 今、この瞬間に腕の中にいる存在が ―― 稜の温もりが傍らにある限り、自分は誰よりも、何よりも、強く、揺るぎなく、在ることが出来る。

 それは決心などというものではなく、極めてはっきりとした、確信だった。

 今までに感じたこともないような完璧な確信と共に、俊輔は改めて視線を上げ、闇の果てを見据える。

 そこにはまだ、光は射し込んでいない ―― 今はその気配すら、感じられない。
 だがやがて、遠くない未来に、それはやってくるだろう。

 この世にある守りたいものの全てを凝縮したような存在を両腕の中に閉じこめて、俊輔は静かに、息をつめるようにして待つ。
 目の前に広がるひとつの世界において、圧倒的な朝の光が闇に勝利する、その、瞬間を。

―――― NIGHT TRIPPER Act.3 END.
to be continued Epilogue ...