34 : 愛の言葉
「・・・こんなことは、もう二度と言わない。約束する」
無言で見上げてくる稜の頬を指先で辿るようにしながら、掠れた声で、俊輔が言った。
「だから、今回だけ ―― 一度だけでいい。愛していると、言ってみてくれ、・・・」
懇願めいた声で囁く俊輔を、長いこと、黙って見詰めていた稜の唇がやがて、言葉を形作るように、震えた。
だがそうして震えた稜の唇から、言葉は発せられなかった。
その代わり ―― 言葉になり得なかった声に押し出されるかのように ―― 俊輔を見上げる稜の瞳を濡らしていた涙がみるみるうちに目のきわに溜まって目尻から零れ落ち、その頬に次々と透明な軌跡を描いてゆく。
物心ついて以降、人前で涙を見せることを、何よりも一番嫌っていた稜であった。 そのポリシーは今でも、変わってはいない。
けれども今、この瞬間 ―― いや、例えいつであろうとも、俊輔になら涙を見せても構わないと思う。
それは涙だけでなく、稜が他の何を見せても、俊輔が黙ってそのありのまま全てを受け止めて、受け入れてくれることを、いつからか稜は知っていた。
無音でこぼれ落ちる涙は止まることを知らず、やがて稜は俊輔の二の腕をきつく掴み、その肩に額を押しつけるようにした。
そうしてそれから長いこと、稜は泣いていた。
声は出さなかったが、激しく肩を震わせ、俊輔の胸が流れ落ちる涙によってぐっしょりと濡れ尽くしてもなお、稜は泣きやまなかった。
俊輔は何も言わず、震えるその身体を腕に抱き、泣きたいだけ稜を泣かせた。
当たり前だ、と俊輔は思う。
そう、それは至極当たり前のことであった。
今まで冷静でいたことの方が、おかしいのだ。
今まで少しも泣かなかったことの方が、おかしいのだ。
どれだけ怖かったか。
どれだけ恐ろしかったか。
どれだけ辛かったか。
どれだけ苦しかったか。
それは未来永劫、稜にしか分からない。
いつか道明寺が言ったように、それは稜がこれから一生涯、ただ一人で背負ってゆかなければならない、重い重い記憶だ。
他の誰にも、少しも、肩代わりしてやることは出来ないのだ。
ただし、と俊輔は思う。
そう、ただし、稜が抱えるものの重さに耐えきれず、暗黒の記憶に落ち込みそうになったとき ―― そんな稜の傍にいて、その身体を引き上げる努力をし続けることは出来る。
それは自分にしか出来ないことであると俊輔は思い、その強い決意の赴くまま、稜を抱く腕に力を込めた。
そんな俊輔の腕の中で、長い時間をかけて、泣き始めたときと同じように静かに泣きやんだ稜が、腕を伸ばして俊輔を更に引き寄せる。
涙に濡れた頬が俊輔の頬に押しつけられ、次いでその唇が俊輔の耳朶に押し当てられる。
そしてその唇が囁く。
愛の言葉。
思わず泣いてしまいそうになるのを強く目を閉じることで堪え、俊輔は耳元で何度も、うわ言のように囁かれる言葉の全てを記憶の壁に刻み込む。
そこには痛みすら生じたが、それでよかった。それがよかった。
痛みと共に、より鮮明に記憶が残るのであれば、どんなに痛くても構わないと、俊輔は思う。
その後も壊れたように言葉を紡ぎ続ける稜の頬に口づけて、俊輔は小さく身体を起こし、
「なぁ、これって一生分のつもりなのか?
出来ることなら半分ばかりどこかに保存しておいてもらって、今後小出しにしてもらえると嬉しいんだけどね、こちらと致しましては」
と、悪戯っぽい口調で言った。
俊輔の声は表面的には飽くまでもふざけたような調子を取り繕っていた。
だが声とは裏腹に俊輔の瞳の奥にはぎりぎりなまでの真剣な光があり ―― その視線はどこまでも甘かった。
そんな俊輔の視線を未だ濡れ尽くした目で見上げていた稜は、視線をいつも通りのものに戻しながら小さく首を傾げ、
「・・・こういうのが保存の利くものかどうかはともかくとして、今後のことは、まぁ ―― 気が向いたら、もしかすると、もしかするかもしれない」
と、素っ気ない口調で言った。
そう言い合った2人は同時に吹き出し ―― 笑いあいながら、どちらからともなく、口づけてゆく。
可能な限り濃厚に両腕と両足を絡ませ合いながら、唇の皮を啄み合うように交わされる口づけ。
何度も何度も、角度と、強さと、速度を変えて唇を交わしながら手足を絡ませ直すたび、稜の奥深くに穿ち込まれた俊輔自身が脈打ち、それを包み込む稜がまるで愛おしむようなやり方で震える。
官能的に過ぎるそんな感覚に煽られるように、口づけは濃厚さを増してゆき ―― その果てに俊輔が訊く、「あのさ、そろそろ動いてもいいか」
押し殺し切れていない切羽詰まった調子を纏わせた俊輔の声を聞いた稜は、笑いながら小さく頷き、俊輔の首に強く腕を回し直した。