エピローグ : 1
それは凍えるように寒い、とある真冬の午後のことだった。
朝から担当している得意先を回り、予定よりも少し早めに訪問スケジュールをこなして帰社しようとしていた俺は、道の向こうに懐かしい ―― そこには少しばかりの腹立たしさも含まれているのだったが ―― 人物が立っているのを見て、思わず大声を上げてしまう。
「 ―――― 志筑!」
興奮と驚きのあまり、怒鳴るようになってしまった声に一番最初に振り返ったのは、志筑の横に立っていた男だった。
続いて志筑の周りに立っていた数人の男たちが、次いで通行人が、何事かというように一斉に振り返って俺を見る。
そしてその一番最後に、志筑がゆっくりと、振り返った。
俺が志筑稜と会ったのは、大学を卒業して入社した某大手物産会社の入社式だった。
その後志筑とは新人研修のグループが一緒で、数年後に同じ部署に配属になってからは、数多くいる同僚の中でも特に仲が良かったと言ってもいいだろう。
会社を引けた後に飲みに行った回数は数え切れないし、休日に会社の仲間と色々なところに遊びにも行った。
それぞれ、当時付き合っていた彼女を連れて(俺の場合、それが今の女房だったりするのだが)、一緒に旅行に行ったことすらある。
だが志筑は、唐突に俺たちの前から姿を消した。
はじめは父親の具合が悪いから、という理由で休職をしたのだが、後にして思えばあの休職の仕方もおかしかった。
その後も本社に復職する道を蹴って、何故か茨城にある小さな関連企業に出向し ―― そのまま、本当にかき消えるように、志筑は皆の前から姿を消してしまったのだ。
志筑と親しくしていた誰に聞いても志筑の行方を知っている者はいなかった。
その幾人かと色々と調べてみたのだが、結局何が起こって、志筑がどこへ行ってしまったのか、分からずじまいだった。
あれから、もう3年もの月日が経つ。
その間も志筑からは何の連絡もなく ―― おかしいと思った時点できちんと問い質せば良かったと、俺は未だに、ことあるごとに後悔し続けていたのだ。
「・・・久しぶりだな、水谷」
人通りの多い道で、幾度か道を塞がれそうになるのを避けながら、俺は足早に志筑に近付いて行った。
そうして目の前に立った俺を真っ直ぐに見て志筑は言い、うっすらと微笑んだ。
「“久しぶりだな”じゃないだろう」
志筑の腕を掴んで、俺は言った。
「何年間、音信不通だったと思ってるんだ。みんな心配してたんだぞ」
「・・・ごめん。悪かったよ」
困ったように顔をしかめて志筑は言い、隣に立つ男を見上げる。
「以前勤めていた会社の、同期だったんだ」
志筑が簡潔にした説明を聞き、その男 ―― 俺が声をかけたとき、真っ先に振り向いた男だ ―― が俺を見た。
「初めまして。辻村です」
と、男は言った。
「は、はぁ、どうも・・・水谷です」
と、俺は言った。
辻村と名乗ったその男は、俺たちよりも4、5歳ほど、年齢が上だろうか ―― とても深く、厳しい目をした、男だった。
じっと見詰められると、複雑にねじ曲がって屈折した心の奥底まで、あっさりと見抜かれてしまいそうな気がしてくる。
営業という仕事をしている最中、様々な意味合いにおいて厳しい目を持つ人々に会ってきた俺だったが、こういう種類の厳しさを湛えた目は、かつて一度も見たことはない。
彼がこれまでにどんな仕事をして、どんな生き方をしてきたのか、さっぱり想像がつかなかった。
だがその辻村と名乗った男のことよりも俺が気になるのは、当然ながら志筑のことだった。
だから俺は辻村という男の観察はそこそこで切り上げ、志筑に視線を戻す。
「ったく、連絡のひとつくらい出来ないのかよ、薄情な奴だな、本当に・・・、なぁ、志筑、今からどこかで少し、話せないか?」
「・・・うーん、でも水谷、仕事中じゃないのか?」
「んな堅いこと言うなよ。志筑だって知ってるだろう、営業ってのは1、2時間くらいの時間なら、どうとでも誤魔化しがきくんだ。
ほんの少しでもいいんだけど、駄目か?これから何か、用事があるのか?」
「・・・んー、いや、・・・」
と、言い淀んだ志筑に、
「行ってくればいい」
と、辻村という男が、静かに言った。
「俺は先に行っているから ―― 場所は、分かるだろう?」
そう言われた志筑はちらりと辻村という男を見上げ、少し考える様子を見せてから、黙って頷く。
辻村という男もそれを見て頷き、それから再び俺を見て軽く会釈をし、踵を返す。
周りに数人いた男たち(部下か何かだろうか?)と共に彼が去ってゆき、その場に残された俺たちは、その後ろ姿を何となく見送る形になった。
上質そうなトレンチ・コートを着た辻村という男の後ろ姿を俺は、
日本人で、トレンチ・コートの襟を立てて似合う男がいるとは思わなかったな。
“その曲は、二度と演奏しないでくれないか”とか、今にも言い出しそうじゃなかったか、あれ。
などと下らないことを考えながら、見送っていた。
やがて彼の姿が人ごみに紛れて殆ど見えなくなったところで、俺は志筑に視線を戻し ―― 瞬間、思わず息を呑んでしまう。
辻村という男の後ろ姿を見送る志筑の目を、どう表現すれば良いのだろう ―― 何というか ―― そう、それは土砂降りの雨の日にようやく見つけた雨宿りの場所を、理不尽に追い払われた猫のような、というと近いだろうか。
こんな弱々しい雰囲気の志筑を、俺はかつて一度も、見たことはなかった。
だが俺の訝しげな視線に気付いた志筑は、すぐに表情を見慣れたものに戻してその場を取り繕うように笑い、
「どこに行こうか?」
と、言った。
「・・・すぐ近くに、スターバックスがある」
と、俺は言った。
「ああ、そういえば駅前にあったな・・・でも結構混んでないか、あそこ?」
「駅の改札前にあるのはな。でも駅ビルの地下にも店舗があって、そこは結構空いてるぜ、いつも」
じゃあそこでいいか。という話になり、駅に向かいながら俺は言う、「しかし何だか、悪かったな」
「・・・何が?」
と、志筑が訊く。
「だって一応、何か用事があったんだろう?そこに突然割り込んじゃったからさ・・・ところでさっきのって、友達か?」
と、俺は訊き返す。
それは別に、本当に、何気なくした問いだった。
今日はいい天気だなとか、最近どうしてるとか、元気にしてたのかとか ―― 久々に会う相手と必然的に取り交わされる、準備運動的会話のひとつのつもりだった。
だが志筑は俺のその問いかけを聞き、ふいに足を止める。
2、3歩行ってから志筑が立ち止まったのに気付き、俺も立ち止まった。
そして振り返った俺を、志筑は揺るぎのない ―― しかしどことなく奇妙な目で見据える。
「いや、あれは友人じゃない」、と志筑は言った、「友人じゃなくて ―― 恋人」
志筑のその返答を聞いた俺は、耳を疑う。
―――― “恋人”?
意味が分からなかった。
その簡単な(はずの)言葉の意味が、一瞬、全く、分からなくなる。
だがむろん、すぐに志筑が言った言葉の意味が、どう考えても一つしかないことに気付き、俺は愕然とする。
「・・・は?・・・え?・・・って、だって、志筑お前、あれって ―― と、俺はもう姿の見えなくなっていた男の後ろ姿が消えた方向を、確かめるように見た ―― え、え・・・、ぇええええ!?」
無意味な言葉を積み重ねた後、俺は驚愕の余り、あんぐりと口を開けたまま固まってしまう。
そんな俺を黙って見ていた志筑はやがて、口の端を小さく歪めるようにして笑い、
「・・・じゃあな」
と言い、あっさりと、俺に背を向けた。