エピローグ : 2
「・・・ちょ、ちょっと!おいおい、ちょっと待てよ ―― 待てって、志筑!」
躊躇いも何もなくその場から立ち去ろうとした志筑を俺は慌てて追いかけ、その腕を掴む。
「どこに行くんだよ、少し話せるって、言ったじゃないか」
「・・・でも、気持ち悪いとか、何とか ―― そういうの、あるかと思って」
首だけ回して俺を見て、志筑が言った。
「・・・う、いや、そりゃあまぁ・・・、ちょっと・・・っていうか、かなりっていうか、正直、相当びっくりはしたけどさ・・・でも気持ち悪いとか、そういうんじゃないよ。ぜんぜん。志筑は志筑なんだし ―― ほら、行こうぜ。な?」
と、言いながら、俺はほぼ強引というのに近いやり方でもって、志筑を駅ビル地下にあるスターバックス・カフェに連れて行った。
そうして辿り着いたスターバックス・カフェのテーブルを挟み、俺たちは最初にざっと近況を報告しあったのだが ―― それはすぐに、あっさりと終わってしまう。
話したいことは色々とあるはずだったが、先ほどの志筑の衝撃的な告白に比べれば、何もかもが全て、報告する価値のない、実に些末な事柄に思えてくる。
そんな訳で短い近況報告の後に沈黙が続き、その沈黙の間、俺はずっと躊躇っていた。
訊いてもいいのか、いけないのか。
訊くとしたら、どこまで訊いていいのか。
どこから訊いてはいけないのか。
だがそうして思い悩む俺を眺める志筑の視線が、どことなく笑いを含んだものであるのに気付いたところで、俺はあっさりと悩むのをやめた。
話したくないことであれば、志筑ははっきりとそう言うはずだった。
何かを適当な嘘で誤魔化したり、いい加減にはぐらかしたり ―― 志筑がそういうことを絶対にしない(出来ない)性格であることを、俺は知っていた。
「もともと、そういう嗜好じゃなかったよな、志筑は」
軽い咳払いをしてから、俺は言った。
「最後の方に付き合ってた人 ―― ほら、お前が珍しく指輪をしていた人。あの人とは、別れたんだ?」
「ああ、うーん、って言うか・・・、やっぱり俺にはああいう指輪とか、合わなかったみたいで」
軽く肩を竦めて、志筑は言った。
「特に理由もなく好きじゃないと思っていたけど ―― 嫌だと感じていたのには、それなりの理由があったんだと思うよ、縁起が悪いっていうかさ・・・、今にして思えばだけどな」
「ふぅん・・・」、と俺は、曖昧に頷く。
謎かけのような志筑の言葉の意味はよく分からなかったけれど、何となく突っ込んで訊かない方がいいような、そんな予感がした。
「でもまぁ、とにかく・・・そうだな、ちょっと意外っていうか、驚いたよ」
「驚いたという話をするなら、俺の驚きの度合いは多分、水谷の比じゃない」
手にしたカップに入ったホット・ミルクを口にしながら、志筑は言った。
「まぁ、それはそうだろうな ―― それに嗜好という話をするのならそもそも、その牛乳だってそうだよ。昔は見てるこっちの胃が変になりそうな、濃いコーヒーばっかり飲んでたのに、志筑は」
と、俺は言って顎で志筑が持つカップを指した。
それを受けて志筑は手にしたカップに視線を落とす。
「 ―― 数年前に身体を壊して以来、カフェインが全く駄目なんだ」
と、志筑は淡々と説明した。
「ああ、そうなんだ。身体を壊したって、態のいい言い訳なのかと思ってたけど、本当だったんだな。
今は?もう大丈夫なのか?」
「ああ、うん。大体のところは」
答えながら、その指先でカップの取っ手の形をなぞる動作を繰り返してから、志筑はカップをテーブルの上で5センチばかり右に滑らせる。
それから思い切るように顔を上げ、志筑は真っ直ぐに俺を見た。
そして訊ねる、「ところで、水谷、あのさ ―― 真由・・・、彼女は今、どうしてる?」
そう訊かれた俺は、思わず一瞬、言い淀んでしまう。
志筑が付き合っていた木下真由と俺の女房は、かなり仲の良い友達だった。
と、いうかそもそも、志筑と付き合っていた彼女が、俺に女房を紹介してくれたのだ。
だからもちろん、言い淀む意味などない。
知らないなどという言い逃れは、そもそも絶対に、出来はしないのだ。
だから俺は正直に答える、「1年くらい前に、結婚したよ。同じ会社の同僚だって聞いた」
「 ―― そうか、それなら良かった」
と、志筑は静かに言った。そして微笑む。
「ずっと、それだけが気がかりだったんだ」
志筑の表情や声音はさっぱりとしており、未練があるような雰囲気は皆無だった。
ただずっと、彼女と強引に別れた(その顛末を俺は、女房に聞いて知っていた)ことを気に病み、彼女のその後を心配していたのだろう。
でも、それでも、俺は激しく、強く、思わずにはいられなかった ―― どうしてなんだよ、と。
むろん、人の気持ちが自由にならないことは知っている。
志筑のことだ、相当に悩んで、悩んで、悩み尽くしてあの男と一緒にいる道を選んだのだろう、それも想像は出来る。
しかし俺は志筑と真由ちゃんが、本当に仲が良かったのを知っていた。
普段の2人は恋人というよりはむしろ、友達に近いような感じではあった。
けれどいつも顔を寄せ合うようにして話をし、笑い合う2人を、俺と女房はこんなに似合いのカップルがいるものだろうかと感心して見ていたのだ。
それなのにその彼女を捨てて選んだのが、あの果てしなく気難しそうな、一癖も二癖もありそうな男なのか?
何故真由ちゃんでは駄目だったのか ―― いや、彼女が駄目だったとしても、他にもっと、いくらでも、選べる道はあっただろう、お前なら。
それなのに、どうして・・・、・・・ ――――
こんなことを、全てが終わった後で他人がごちゃごちゃ言っても始まらない。仕方ない。何の意味もない。
それはよく分かっていたので、俺は口にしたコーヒーと共に、それらの言葉を飲み込む必死の努力を繰り返す。
その後俺たちは話題を変え、小一時間ばかり他愛ない会話を交わしてから、示し合わせたように立ち上がる。
「この店、普段はもっと空いているのに、今日は結構混んでたな。座れたからいいけど」
コートを着込みながら店を出て、俺は言った。
「 ―― まぁ、そういう日もあるだろう」
軽くて暖かそうなダウン・ジャケットを羽織った志筑はちらりと店内に視線をやって、言った。
「それにしてもお前、相変わらずだな ―― 寒くないのか、って」
スターバックス・カフェの店の前で向かい合ったところで俺は言い、開けっ放しになっている志筑のジャケットの前を指して苦笑する。
「ああ、うん。寒いけどな」
と言って、志筑は笑う。
その志筑の、曖昧な微笑みを見た俺は ―― コーヒーではどうにもこうにも飲み込みきれなかった、疑問の核になっている思いを心に留めておくことが、出来なくなってしまう。
「なぁ、志筑」、と俺は言う、「お前、今、幸せか?」
咳きこむようにそう訊ねた俺を、長いこと眺めていた志筑はやがて、すっと俺から視線を外した。
そして俺を見ていたのと同じくらいの間、行き交う名前も知らない人々の波を眺めて見てから、再び俺に視線を戻す。
「それはとても難しい質問だ」
と、志筑は言葉のひとつひとつを噛み締めるような言い方で、言った。
「ただ ―― 全てを分かった上で何度やり直してみても、俺はきっとこうして、ここにいるだろう」
その回答を聞いた俺はひとつ、深く息をつき、
「・・・そうか」
と、言った。
そして少しの間、俺は悩んだ。
志筑の回答を聞いて感じたことを、言うべきか否か。
しかし悩んだ末に結局、俺はそれを口にしなかった。
簡単に結論づけてしまっていいような、軽々しい問題ではないと思ったのだ ―― もう少し様子を見て、確信が持ててから言うべきだろうと思った。
だから俺はそれ以上は何も言わず、これからはきちんと連絡をしてくれよ。とだけ、言った。
その後俺は会社へ戻るために駅へ、志筑は先ほどの男との約束の場所へ行くために駅とは逆の方向へと、それぞれ別れたのだが ―― 一旦駅へと向かう振りをしただけで、俺は志筑の後を追った。
なぜ、そんなことをしようと思ったのかは、自分でもよく分からない。
連絡をしろと言った俺に手を上げて見せただけで、志筑が明確な返答をしなかったせいも、あったかもしれない。
単純に志筑とあの男のことが心配だったというのも、もちろんあったろう。
ともあれ、俺は駅に背を向けて歩いて行く志筑の後を、注意深く追って行った。
今の今まで向かい合っていた人間の尾行をするだけに、相当に気を遣いつつ後を付けていたのだが、志筑は一度も振り返らなかった。
そうして歩いて行く志筑の横にやがて、黒い大きな車が静かに寄って、停まる。
その車を見た志筑が立ち止まったので、俺も行き過ぎる人影と側にあったレストランの看板に半分身体を隠すようにして、足を止める。
道路脇に停まった車から出てきたのは、志筑が恋人なのだと言った、辻村という名の男だった。
彼はゆっくりと志筑の前に立ち、2言3言、志筑に何かを言った。
それに対して志筑が幾度か頷いて答えたのに、再び辻村という名の男が何事かを口にして、笑う。
恐らくそれは、志筑をからかうような内容だったのだろう ―― 志筑は思い切り顔をしかめ、目の前の男から顔を背けた。
その次に ―― 俺は見る。
からかうような笑いはそのままに、さりげなく上げられた辻村という男の手が、志筑のジャケットの前を閉めて行くのを。
そして憮然とした表情で在らぬ方を見たままの志筑の意識が、その男のその所作に、なだれ込むように集中して行く様を。
何となく息を詰めてその光景を見守る俺の視界の向こうで、志筑のジャケットの前を閉め切った辻村という男が、志筑を車に乗せる。
と、そこへまるで通行人のような顔をして歩いてきた男がすっと彼の側に寄り、その耳に何事かを囁くようにした。
次の瞬間、辻村という男が鋭い勢いで視線を上げ、射抜くように俺を見た。
それはちょっとあり得ないような勢いであり、普通ではない鋭さだった。
俺と辻村という男の間には、おおよそ10数メートルの距離があったと思う。
だがそれでもその視線を受けた刹那、背中が一気に冷却されてゆくような感覚を、俺は覚えた。
悪寒と同時に、息をすることすらおぼつかないような気分になる。
そうして固く凍ったようになった俺から、辻村という男はしばらくの間、視線を外さなかった。
それはそう長い時間ではなかったと思うが、俺には1時間にも2時間にも思われた。
長く短い時間の後、彼はその視線の鋭さを軽減させて俺から視線を外し、横に立つ男に向かって短く何かを言い、小さく首を横に振った。
それから彼はもう俺を見ようともせずに長身を屈め、車に乗り込む。
そんな辻村という男の様子を見ながら俺は何故か、今後もう二度と、志筑と会うことはないだろうという気がした。
それなら ―― そうであるのなら、最後に言わなかった言葉を口にすれば良かった、と俺は思う。
幸せかどうかは分からないけれど、何度やり直してもここにいるだろう。と答えた志筑に、言ってやれば良かった。
なぁ志筑、世の中の一体どれだけの人間が、今のお前みたいに、何度やり直しても同じことをして、後悔しないと言い切れると思う?
多分だけど、そんな人間はそうそういないと思う。
だからそう言い切れるっていうのはつまり、少なくともある意味においては、幸せだということなんじゃないか。
言えなかった、成し遂げられなかった後悔ばかりをひっさげて生きている人々の中で、例えひとつの物事に対してでも、後悔しないと言い切れるのであれば、それは幸せなことなんじゃないか。
少なくとも俺は、そう思うよ、・・・ ――――
言いそびれたそんな言葉の数々を胸の内で繰り返しながら、俺は遠ざかって行く車のテール・ランプを見ていた。
そして志筑が乗った車の姿が全く見えなるのを確認してから俺は踵を返し、ゆっくりと、駅へと向かう。
俺の背後には暫くの間、伝えそびれた言葉の残骸が無音のものとなって、空間にゆらゆらと浮遊していた。
―――― NIGHT TRIPPER Epilogue END.