== DEATH-tiny-LabYrinTH Epilogue ==
身体が熱い、と感じた稜だったがそれは感情が昂りすぎたせいで、一時的なものだと思っていた。
が、触れている稜の身体が異様に熱いのに気付いた俊輔が熱をはかると、稜の体温は9度近くまであがっていた。
呼ばれてやってきた道明寺は診察の末、風邪の兆候は全くないので、疲れが溜まったのかもしれない、と言った。
処方された薬で高熱は下がったが、その後まるまる1週間、稜の微熱は引かなかった。
稜にとって、今回のことがどれほどの精神的負担だったのか。
言葉にされずともその衝撃の大きさが分かり、俊輔は沸き上がる怒りを抑えきれない。
生じる怒りはむろん、自分自身に対するものだ。
もし自分の分身が目の前に現れたら、相手を滅茶苦茶に殴り倒し、そして自分のことも同じように殴ってもらうだろう。
だがそんな俊輔の怒りに油どころか原油を注ぎ込む存在がいた。
その存在とは言うまでもない。駿河菖蒲だ。
長期に亘って唐突な休暇をとったため、俊輔は稜が伏せっていても側にいることが出来なかった。
その代わりに菖蒲が毎日ほぼ泊まり込むような勢いで、稜の世話をしにマンションに入り浸っていた。
そして例のタイム・リミットの前日に取り交わした約束のため、俊輔は菖蒲にひとつの文句も言えなかったのだ・・・・・・。
「おかえりなさいませ、俊輔さま」
タイム・リミットであったはずのあの日から、一ヶ月ほどの日数が経ったとある金曜日の夜。
マンションに帰った俊輔を玄関で出迎えたのは、菖蒲だった。
にっこりと微笑む菖蒲の顔を見た瞬間、俊輔はその場にずるずると座り込んでしまいそうになるのを必死で堪える。
「お食事は用意してありますけれど、お食べになりますか?志筑さんと一緒に、ロールキャベツを作ったんですけれど」 にこやかに、菖蒲は言った。
俊輔は答えず ―― 無視したのではない、まともに立っているのが精一杯で、答える気力がなかったのだ ―― ぐったりと菖蒲を眺める。
「・・・いかがなさいました?」
と、菖蒲はとぼけて訊いた。
「・・・いや・・・、何でもない。おい、稜は・・・」
と、俊輔が訊き返そうとした時、稜が手洗いから出てきた。
「ああ俊輔、おかえり。食事は?ロールキャベツがあるけど。菖蒲さんと作ったんだ」
と、稜は屈託なく ―― ないのだろう、たぶん ―― 菖蒲の言った言葉を繰り返した。
そして菖蒲を見て、
「菖蒲さん、料理うまくなりましたよね。最初は包丁の使い方とか、すごく危うかったですけど」
と、微笑んだ。
「最初の頃は志筑さん、何度も手を出しかけては思いとどまっていらっしゃいましたものね」
と、菖蒲は楽しげに声を上げて笑った。
「でも志筑さんみたいに、料理と同時に片づけたりはまだ出来ません。いつも思うんですけれど、あれ、魔法みたいですよね」
「ああいうのは単に慣れですよ」
「そうでしょうか。志筑さんならではという気がしますけれど・・・私なんか今日は、タマネギすらろくに刻めませんでしたし」
「はは。ふと隣を見たら号泣していて、びっくりしました」
「タマネギを刻むと涙が出るというのは知識としては知っていましたけれど、あんな風に目もあけられないほどになるとは知らなかったんですもの」
「タマネギをオーブンで少し温めてから刻むようにするといいんですが、忘れていたんですよ」
「そうすると大丈夫なんですか?」
「ええ、大分違うと思いますよ」
「でしたら次の時には、そうしてみますね」
と、そんな風に2人の会話はその後も延々と続いた。
2人が玄関から各部屋へ続く廊下の左右に分かれて話しているため、俊輔はその会話に参加することも出来ないまま、ただ突っ立って聞いている羽目になる。
なんなんだこの状況は、と俊輔は思う。
これではまるで、“新婚夫婦の家に事前連絡もせずに不躾に訪問した知人”のようではないか。
どうしてこの俺が、自分の家で、こんな気分にならなければならないのだ。
実に不快だったが、2人の間を歩き抜けるのも、空間に余裕があるからと言って2人それぞれの後ろにある狭いスペースを強引に通って奥に行くのも、子供っぽすぎて気が引ける。
為す術もなく稜と菖蒲の会話を聞いているうちに不快を通り越して達観のような気分になっていった俊輔だったが、やがて稜がその状況に苦笑し、なにもこんな、玄関で話し込まなくても良いよな。と言ったことで会話は終了し、3人はリビングに向かった。
いつまでこの会話を聞いていればいいんだ、と思っていた俊輔はホッとしたが ―― それもつかの間、足を踏み入れたリビング、ダイニング・テーブルの上に広げられたものを見て、嘆息を押さえきれない。
テーブルには2つのマグ・カップと沢山の旅行のパンフレットが散らばっていたのだ。
俊輔は無言で、菖蒲を見下ろした。
菖蒲は笑って、俊輔を見上げた。
「12月の前半あたりに、旅行に行こうと思いまして。今のところ、最有力候補はモルディヴです」
にこやかに、菖蒲は言った。
モルディヴ、と俊輔は口の中だけで繰り返した。
俊輔が声に出しては何も言わなかったので、菖蒲はにっこりとしたまま続ける。
「さすがに行き先が海外では俊輔さまが反対すると、志筑さんが心配なさっているのです。でも反対など、なさいませんよね?確かその頃俊輔さまは、熊本の安藤組組長の襲名式に出席されると聞いておりますし・・・あちらに行かれるのは久々ですし、とんぼ返りという訳にはゆかないでしょう?ですから、その間に」
菖蒲の口調はあくまでも俊輔に伺いをたてる、という風を装っていた。
だがそれが表面上のものであるということは、明らかだった。
襲名式云々は稜の手前、最もらしい理由を上げているだけだ。
「・・・稜、お前、行きたいのか?」
と、俊輔は稜を見て訊いた。
「あー、うん。お前がいないなら、行ってみたいな。モルディブは行ったことがないけど、マンタとかイルカとかが相当近くで見られるっていうから、ずっと行ってみたかったんだ」
と、稜は答えた。
「先ほど知ったんですけれど、志筑さんはダイビングのインストラクターの資格をお持ちなんですって。本当に志筑さんって、引き出しが多いですよね ―― 俊輔さま、どうぞ」
キッチンから出てきた菖蒲は楽しそうに説明し、手にしたトレイから温めたロールキャベツと焼いたフランスパン、色鮮やかなサラダの入ったボウルをダイニング・テーブルのあいたスペースに並べた。
ご丁寧に、グラスに注がれたワインまで付いている。
食欲はまるでなかったが、俊輔はなし崩し的にテーブルについた。
隣に稜が座り、その目の前に菖蒲が腰を下ろす。
「・・・お前が行きたいなら、問題ない。行ってくればいい」
半ば自棄気味にフランスパンをちぎりつつ、俊輔は言った。
それを聞いて菖蒲が、ね、問題なかったでしょう?と稜に微笑みかけ、それを受けて稜も笑った。
なんだか今度は、年頃の娘の親離れを許容できない頑固親父のような立場だな、と俊輔は力なく考えた。
「・・・ただ菖蒲、海外なら連れてゆく護衛は慎重に選べよ。あまり若いのは連れて行くな」
「ええ、分かりました。その辺は裕次郎と相談します ―― 今回は若菜さんも一緒にゆくので、その点は裕次郎もきちんとすると思いますけれど」
と、菖蒲はさらりと言った。
が、それは空爆にあえぐ戦地にダメ押しで打ち込まれた、パトリオット・ミサイルに等しい爆弾発言だった。
俊輔は飲み込みかけていたロールキャベツを、思わず吐き出しそうになる。
「・・・っ、わ、若菜って・・・おい稜、お前、いつの間に三枝若菜と知り合ってたんだ?」
なんとかぎりぎりのところでロールキャベツを嚥下した俊輔が、訊いた。
「知り合ってたっていうか・・・菖蒲さんに紹介されて、何度か会っただけなんだけど」
ミルクティーの入ったマグカップを両手で包み込むようにして持った稜が、答えた。
「でも三枝さんが溺愛してるってだけあって、綺麗で頭のいい子だよな。ダイビングに興味があるんだって」
「そうなんです。この間お目にかかった時に今回のモルディブ行きの話をしましたら、是非一緒に行きたいと頼まれたのです。
若菜さんはC大の法学部に推薦入学が決まっていますし、学期内ですけれど問題ないということなので」
浮かべた笑顔は崩さずに揺るぎなく俊輔を見つめ、菖蒲は言ったが ―― その瞬間、俊輔は悟った ―― 怒っているのだ、この女は。まだ。
俊輔の両頬をひっぱたいたあの日と寸分違わない怒りの炎が、菖蒲の中に燃え盛っているのが分かる。
嫌だムカつくと口では言っていても、稜は俊輔に対して甘いところがあった。
今回のようなことであっても、結局稜はそう長い時を置かずに俊輔のどうしようもなさを許容する。
が、菖蒲は稜とは違い、今回のことは余程腹に据えかねているのだ。
だからこうやって殊更に、俊輔が嫌がることを重ねてしてみせるのだ。
三枝若菜 ―― 三枝の今は亡き恋人の忘れ形見である娘が、俊輔はあまり得意ではなかった。
特に何をされたわけでもない。
基本的に三枝は娘を極道の世界とは切り離しておきたいと考えているので、今までに顔を合わせたのも片手の数にも満たない。
だがそういう理屈ではなく、俊輔は三枝若菜とは関わり合いたくないと考えていた。
三枝若菜の母親である東条櫻子(とうじょうさくらこ)は、京都を本拠地とする広域指定暴力団、饗庭会(あえばかい)会長の本妻だった。
だが彼女は元々、饗庭会と敵対していた組織に属する組の若頭の愛人で、そこに収まるまでも幾人もの名だたる極道の元を転々としていたらしい。
噂によると、彼女を巡っていくつもの組織が闘争を繰り返し、その中で潰された組織も複数あったという。
男の精気を吸い取って生きていると言われる櫻子に、俊輔は一度だけ会ったことがあった。彼女が亡くなる、数か月前のことだ。
表情のない冷たい印象の女で、男に媚びるような気配は微塵もなかったが、ちらりと視線を流されただけで背筋がざわりとざわめいたのをよく覚えている。
それは明らかに、性的な匂いのするざわめきだった。
その頃の櫻子は既に50は越えていただろうが、どう多く見繕っても30代前半にしか見えなかった。
この世のものとは思えない、正に禍々しいと表現するに足る美しさ。
男の身体から、反射的かつ強引に性的衝動を引きずり出して暴いて見せる、魔性の気配。
ぞっとした。
こんな女に捕まったら、死ぬまで精気を吸い取られるだろうと思った。
これだけ若く美しいのも、そうした行為を繰り返してきたからなのだと、すんなりと納得出来た。
そんな櫻子を本気にさせた三枝も恐ろしいが、そんな女から生まれ、櫻子が唯一 ―― 彼女の他の子供はそれぞれ、大阪や京都の大きな組織で頭角を現し始めている ―― 手放そうとしなかった一人娘も、俊輔は負けず劣らず恐ろしいと感じていた。
今はまだ一介の学生然としているが、あの櫻子の血を引く女だ。今後どう化けて出るか、分かったものではない。
それが稜の周りをうろつくのかと思うと、眩暈すら覚える。
つまり今後は菖蒲だけでなく、若菜をも警戒しなくてはならなくなるのだ。
しかも若菜が出てくるとなると必然的に、今以上に三枝の監視の目が私生活に及んでくることになるだろう・・・・・・。
パンフレットやら旅行ガイドやらを開き、本格的にモルディブ観光の話題で盛り上がる稜と菖蒲を尻目に、
“もう、泣いちゃおうかな・・・”
と、真剣に悩んでしまう、俊輔であった・・・。
―――― NIGHT TRIPPER番外編 DEATH-tiny-LabYrinTH END.