== DEATH-tiny-LabYrinTH 20 ==

「俺はお前が嫌いだ」

 愛している、と言った俊輔の言葉の最後に重ねるように、稜は言った。

「今のこの状況下でそういうことを平気で口にするところが、何よりも、本当に嫌だ」

「そうなんだろうな」
 自嘲気味に小さく笑い、俊輔は頷いた。
 だがすぐに断定的な口調になって続ける、「でもな ―― 今の俺には、これしか言える言葉がないんだよ」

 稜は黙ったまま、答えなかった。

「・・・俺はこれまでもこんな風にお前を悩ませたり、傷つけたり、散々してきたんだろう。そしてそれはきっと、これからも変わらないんだ ―― 言っておくが、開き直っている訳じゃないぞ。だが今回のことでつくづく悟ったんだ。
 俺だって今回ばかりは、相当に悩んだ。それは本当だ。色々な選択肢があったし、やりようがあった。その中から考えに考え抜いて、一番と思うやり方を選んだつもりだった。それはこれまでもずっとそうだったし、今後も同じだ。だが俺は結局いつも、選択の悉くを選び損なってしまうんだろう ―― 悩みに悩んだ末にお前を傷つけるやり方を、そうとは思わずに選んでしまうんだろう」

 そこで俊輔は言葉を切った。
 稜は厳しい視線で眼下に広がる夜景に目をやったまま、やはり何も答えようとはしなかった。

「・・・質の悪い、呪いにかかったみたいだ」
 俊輔は言い、小さく笑った。
「やることなすこと全て真逆にでて、何もかもが嘘のようになってゆく ―― その中で何がどうあろうと変わらないのは、俺がお前を愛しているということだけなんだ」

 低く囁かれた俊輔の声が闇に溶けた瞬間、固く引き結ばれていた稜の唇が、呼吸に擬態するように震えた。

「愛しているんだ。もう俺には、それしか言えない。それしかない。愛している。お前を、愛している。愛している、愛している、愛しているんだ、稜、・・・・・・」

 壊れたように俊輔は繰り返し、今度こそはっきりと唇を震わせた稜が、怒りに任せたやり方で身体ごと俊輔に向き直った。
 この瞬間こそを待っていた、とばかりに、俊輔の両腕がその身体を抱きしめる。

「・・・っ、放せ・・・!触るなって、言っただろう・・・!」

 無意味だと知りつつ、稜は激しく抵抗する。
 ここで謝れば何もかもが振り出しに戻ると知っていた俊輔はただ黙って、稜を抱く腕に力を込めた。
 俊輔の少し高めの体温がスーツの布を越えて稜の肌に伝わるほど、血の流れすら感じ取れるほど強く抱きしめられ、稜は喘ぐ。

 これが全て、失われるはずだったのだ、と稜は思う。  この熱さも、力強さも、強引さも、全てが、今日を限りとして凍り付いてしまうはずだったのだ。

 死者の身体の冷たさを、稜は嫌というほど知っていた。
 姉の、両親の、祖父母の、生命が失われた身体の冷たさは、それまでに知り得た冷たさとは方向性も質も、まるで違っていた。
 物心ついた頃からそこにあるのが当然だった存在が、放っておくと朽ち果ててしまう“モノ”になってしまう瞬間。
 あの冷たさを俊輔で再現されたら、自分は到底生きてなど ―― 少なくともまともに生きてなど ―― ゆけなかったに違いない。

 身体が、熱かった。
 火を放たれたようだった。

 喜べばいいのか ―― そういう気がないでもなかった、もちろん ―― 怒ればいいのか ―― 怒りは無限かと思うほど沸いてきていた ―― 泣きたいのか ―― 先ほどから目の裏が酷く熱かった ―― 滅茶苦茶に喚きたいのか ―― 吐き気を覚えるほど、突き上げる激情はあった ―― 稜にはさっぱり分からなかった。
 その滅茶苦茶な方向に行き交う感情が擦れ合い、そこから生じる火花が、容赦なく身体を内側から焼いてゆく。

 こんな風に我を忘れ、取り繕う暇がないほど取り乱す自分に稜は未だに馴染めなかったし、そんな自分を好きだとは到底思えなかった。
 だが俊輔が本当に死んでしまったら、一生、二度とこういう感情が自分を捉えることはないのだと考えたとき、そんなのは絶対に嫌だと断言できる。
 つまりこういう自分が、本心から嫌だという訳ではないのだろう。

「・・・お前は、ずるいんだよ・・・っ、・・・そんな風に言われたら、もうなにも言えない ―― この10日間、俺がどんな気持ちで・・・、っ、・・・」

 辛うじて動く右手で俊輔の胸を叩き、稜は言った。
 そんな稜の声が、止めようもなく震え、濡れてゆく。

 絶対に見るな、という風に稜は乱暴に俊輔の肩へ顔を埋めた。
 答える代わりに、俊輔は更にきつく稜の身体を抱く。

 稜はその後長いこと顔を上げようとはせず、俊輔もその腕に込める力を微塵もゆるめようとはしなかった。
 時折小さく痙攣するように肩を震わせる稜を腕に、俊輔は視線だけをあげて闇に沈む東京湾を眺めた。

 なぁ、死神。どこかで見ているんだろう?

 と、俊輔は声を出さずに、闇の向こうに訊ねる。

 きっと分かっているんだろうが、こんな状況にあっても止めようもなく背徳的な幸福を覚えてしまう俺は、お前が指し示す ―― 或いは自分が理想とする強さには、到底辿り着けない気がするよ、・・・ ―――― 。

 俊輔がそう“言った”瞬間、微かな雷鳴が聞こえた。
 そして闇に沈む遙かな海の向こうに、この世で死神の姿を露わにするもののひとつ、一条の雷光が光の糸を引いたのも見えた。

 この期に及んで、なに甘えたこと言ってんだよ。ふざけてんじゃねぇ。

 軽薄を取り繕った死神の、呆れ切った揶揄の声が聞こえた気がして、俊輔は唇の端だけで笑った。  

 恐らく自分は今後何年たっても、雷の音を聞く度にあのふざけきった死神の、深く厳しい視線を思い出すだろう。  そしてその度に自分が犯した過ちのひとつを思いだし、苦しむのと同時に誓いを新たにするのだろう。

 そう考えた俊輔は腕に込めていた力を更に強め、苦しげに身じろいだ稜のさらりとした髪にそっと口づけた。