FOXY PANIC

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 それは木下真由と別れた稜が俊輔の元に来る、ずっとずっと、以前のこと。

 その日、俊輔は所用で奥多摩に来ていた。
 うっすらとではあるが義理のある駿河会系のとある組の組長が、湯治先で病状が悪化し、残り幾ばくもなさそうだと聞いて、見舞いに来ていたのだ。

 だが見舞いを終えた俊輔は、酷く不機嫌だった。

「・・・ったく、なんなんだよ、あれは。
“水木はもう長くない”が聞いて呆れる、あの様子ならあの男、あと数年はぴんぴんしてるぞ、何を賭けたっていい」

 そう、もう長くはないだろうと聞いたからこそ他の用事を全て後に回してやって来たというのに、当の本人は至って元気そうだったのだ。
 いや、元気であっただけならばまだいい。
 死にそうなはずの水木は、死ぬどころか2人の愛人を両脇に侍らせて昼間から酒まで飲んでおり、終始ご満悦の態だったのだ。

「いいか、奴と違って、俺は毎日忙しいんだ。あんな光景を見にこんな東京の奥地にまで来ているような時間はないんだよ。
 誰なんだ、水木が死にそうらしいなんて言ったのは!」

 荒々しい足取りと口調で旅館の敷地を歩き抜けてゆく俊輔の後に付いてゆきながら、舎弟たちはちらりと横目で不安げな視線を交わし合う。

 水木の手の者にこの俊輔の言葉が聞かれでもしたらまずいことになるのでは・・・。という心配もあったし、誰に訊くともなく発せられたとはいえ、俊輔の問いに答えるべきか否か逡巡する思いもあった。

 水木の病状を知らせてきたのは駿河会の筆頭若頭である峰山優(みねやますぐる)であり、それを俊輔に知らせるようにと言ったのはあの三枝裕次郎だったのだ。
 知っていることを隠していたと目の前を歩く俊輔の怒りを買うのも恐ろしいが、告げ口をしたと駿河会の重鎮や ―― いや、何よりもあの三枝の怒りを買うのは想像するだけで身の毛がよだつ。
 爆発するように怒る他の幹部連ももちろん怖いが、機嫌を損ねた時の三枝の恐ろしさはそれ以上、いや、他と比べものにはならなかった。
 にっこりと微笑みながら致命傷ギリギリのところを見越して身体中を徹底的に滅多切りにし、その上で塩釜焼きにするような ―― そんな彼のやり口に晒される可能性だけは、出来ることなら全力で回避したいものであった。

「・・・あ、あのー、筆頭・・・車停めたの、逆っす・・・」

 車が停めてある駐車場とまるで逆方向に突き進んでゆく俊輔の背中に、運転手の皆川が恐る恐る声をかけた。

 その声を聞いて足を止めた俊輔は、振り返ってぎろりと皆川を睨み、
「ご親切にどうも。だが俺は一応、左右の区別くらいは付く」
 と、言った。

「・・・はっ・・・すんません・・・」
「俺は少しその辺を歩いてくる。お前らは車ででも待ってろ」
「あ、じゃあ、お供を・・・」
「子供じゃあるまいし、いちいちそんなのは必要ねぇんだよ!」
「いや、でも・・・それ・・・まずい、ん、じゃ・・・」

 と、言いかけた皆川の言葉は、更なる俊輔の怒りの視線に晒されて尻つぼみになって、消えた。

 怒りに満ち満ちた足取りで、舗装されているとはいえ緑深い山道を突き進んでゆく俊輔の背中を見送りながら、舎弟たちは口々に、

「何だかんだ言って、水木組長たちに当てられちゃったんだな、筆頭・・・」
「志筑さん、最近ほんっと、筆頭に冷たいっすもんね」
「俺たちには結構普通だけどな、あの人」
「でもそれ、無理もねぇだろ・・・」
「確かに・・・正直、あの執着ぶりはちょっと怖いっすもんね」
「まぁなぁ・・・自分がされたらと思うと、同情するよな・・・」

 などと、小声で呟き合っていた。

 舎弟たちが推測したように“水木たちに当てられた”自覚は、俊輔にはなかった。

 だが沸き上がる怒りが、水木や彼に関する報告が正確でなかったことだけに起因するものでない自覚はあった。
 いや、そもそも最近、日々鬱積してゆく苛立ちのはけ口が見つけられず、我ながらどうしたものかと思っていたのだ。

 そう、だから無理矢理にでも一人に ―― 都心の直中でではなく、こういう緑多い場所で一人になり、頭と精神をクール・ダウンさせたかった。

 10分ほど山道を歩いただろうか。
 ほんの少しではあるが気持ちが落ち着いてくるのを感じた俊輔は、足取りを緩めてあたりを見回す。

 東京都内とは思えない、噎せかえるような緑の海。
 気のせいなどではない、明らかに酸素の濃い空気を運んでくる、清涼な風。

 こんな場所に来たのは、いったいいつぶりだろうか。
 どんなに記憶を掘り起こしてみても、俊輔には思い出すことが出来なかった。
 おそらくは小学生時代とか、そのレヴェルだろう。

 そう思ったところで、俊輔は思わず一人で笑ってしまう。

 小学生時代 ―― 旧石器時代とさして変わらないように聞こえる。
 当たり前のような顔をして、マンモスが横行していそうだ。

 などと下らないことを考えながら歩いていた俊輔は、そこでふと足を止めた。
 どこかで、誰かが泣いている声が聞こえた気がしたのだ。

 いや、それは気のせいなどではなかった。
 足を止めて耳を澄ますまでもなく、すぐそばの草むらの中で、誰かが悲しげに啜り泣いている。

 声のする草むらを覗き込んでみると、なんとそこには右足を罠に捕らえられた、一匹の狐の姿があった。

 俊輔は訝しげに顔を顰め、あたりを見回す。
 先ほど足を止めた時は泣き声と共に、痛いよう・・・。というような声を聞いたように思った。
 だが周りには俊輔以外、人の気配はない。

 気のせいだったのだろうか・・・。と思いつつ身体を屈めた俊輔は、狐の足を捕らえている罠を外してやる。
 罠を仕掛けた猟師(だろうか?)には悪いが、乗りかかった船と言えばいいのだろうか、放っておけなかったのだ。

 罠から解き放たれた狐はすぐに逃げようともせず、暫し傷ついた足をぺろぺろと舐めていた。
 俊輔はかがんだまま間近にそのつやつやとした背中や、柔らかそうな深い毛に覆われた耳をしげしげと眺める。

 こんなに近くで野生の動物を見るのは初めてだった。
 都心にいる野良猫でも、これよりは警戒心があるだろう。

 結局この狐は、他の場所でまた違う罠にかかるに違いない・・・。

 と、俊輔が考えた ―― その、時。

 顔を上げて俊輔を見上げた狐が、

「あー、痛かった。久々にこっちに出てきたと思ったらしょっぱなからこの様ですよ。笑ってやってください、はっはっは。
 それにしても、助けてくださって、本当に助かりました。一時はもう、どうなることかと絶望することしきりでしたからね。いやぁ、ありがとう、ありがとう」

 と、一気にまくし立てた・・・。