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止めどない勢いで喋りまくる狐を、俊輔は無言で見下ろしていた。
絶対にあり得ない、考えられない状況に、驚くのを通り越して呆然としていたのだ。
そんな俊輔を見上げて、狐が笑う。
「驚くのも無理はありませんやね。でもまぁ ―― とにかく、私は喋れます、こうして。ぺらぺらっとね。
実は他にも出来ることは多岐に渡って色々とあるんですが・・・あんまりひとさまを驚かしちゃいけないって師匠にきつく言いつけられているんで、他に何が出来るかは言わないでおきましょうか。
ああでも、お礼はしたいな、お礼。助けてもらったお礼。って、ちょっと俊輔さん、聞いてます?大丈夫ですかね?」
「・・・だ・・・大丈夫 ―― じゃない。あんまり」
と、俊輔はぎこちなく言った。
「・・・しかし・・・どうして俺の名を知っているんだ?」
「そりゃあ簡単ですよ」
と、狐は再び、はっはっは。と笑いながら答えた。
「あたしは何でも知ってるんです ―― 知ろうと思えば、ですがね。そんな訳で俊輔さんが駿河会系暴力団・辻村組の筆頭若頭であるとか、筆頭若頭ってのは表向きの話で、実質の組長は俊輔さんであるようなものだとか ―― ね、こうして色々と知ってます。
で、お礼ですけれどね。何か欲しいものとか、困っていることとか、ありますか?ああ、悩んでいることでもね、いいですよ」
そう言った狐の目が最後、意味深長に細められた気がした ―― いや、それはその通りなのだろう。
“何でも知っている”と言い切り、実際にすらすらと俊輔の現在の境遇を言い当てて見せた狐は、もちろん俊輔が今、何を悩んでいるか知っているに決まっていた。
「・・・そうだなぁ・・・」
屈んだまま喉を反らし、降り注ぐ木漏れ日とそこから覗く青空をいっぺんに見ながら、俊輔は言い淀む。
願いはそれこそ、山ほどあった。
物心ついた頃から自由はなく、逃亡にも似た日々の中、俊輔は我慢ばかりしてきたのだ。
なにもかもをやり直せるものなら・・・とか、
あの時ああしていたら・・・とか、
ああ言っておけば・・・とか、
そういう埒もないことを考えた回数など、数え切れない。
だが、今は・・・ ――――
「あいつがもう少し従順・・・というか、素直になってくれたらとは思うかな・・・」
俊輔は呟き ―― そこで少し間を空けてから、軽く声を上げて笑う。
「とはいえ、あいつが負けん気が強くて強情なのは昔からだし、それがなくなったらあいつはあいつじゃなくなっちまう気もする ―― って、あれ?」
と、再び俊輔が顔を正面に戻したそこに、狐の姿は既になかった。
慌てて辺りを見回してみたが、あたりには狐の姿どころか今の今まで目の前にあったはずの罠の抜け殻もなく ―― ただ風だけが、無音で吹き渡っていた。
立ったまま(正確には座ったまま、だが)夢を見るなんて、俺はそんなに疲れているのか・・・?と首を捻りつつ舎弟たちの待つ車に戻った俊輔は、そのまま六本木のマンションに帰った。
当初は赤坂の辻商事本社に戻るつもりだったのだが、どうも異常に疲れているようだし、帰り道で事故渋滞にはまるしで、予定を変更したのだ。
だがマンションのエントランスにいた舎弟に、“志筑さんがいらしています”と聞いた俊輔は、疲れが更に3割ほど増した気がした。
例の取引をした後、稜が自らこのマンションに来たことなど、当然ながらただの一度もない。
また何らかの理由で怒り狂っているのだろう、と推測した俊輔は、暗澹たる気分で自室へと向かったのだったが ―― その予測は当たらなかった。
ドア・ロックの外れる音を聞きつけて、奥からすぐに玄関先へと出てきた稜は怒るどころか、
「おかえり。食事作っておいたけど・・・先、風呂入るか?すぐに入れるようにしてあるけど」
などと、耳を疑うようなことを、100万年前から言っていただろうとでも言いたげな、当たり前の口調で訊いた。
「お、お前、どうしたんだ、一体」
靴を半分脱ぎかけた状態で微妙に後ずさりながら、俊輔は訊き返す。
新手の逆襲方法か、何かとんでもなく恐ろしい裏があるのかと考えたのだが ―― こういうところで、普段から蓄積してきた後ろめたさが具現化する ―― 稜はきょとんとして俊輔を見る。
「別にどうもしないけど・・・お前こそ、どうしたんだ?何だか変だぞ?」
と、稜は言ってくすくすと笑った。
変なのはお前だ!!
と、太字・ゴシックで思った俊輔は、手を伸ばして稜の額に手をあてがう。
50度超の高熱が出ているのではないかと心配したのだが、稜の額は特に異常な熱などは伝えてこない。
額に触れさせる手を右手から左手に変えてみても、当然ながら結果は同じだった。
稜は大人しく、そんな俊輔の顔を見上げている ―― が、それもおかしい。
そう、普段の稜であったのなら、“触るな”等と言って俊輔の手を強く払いのけるか、無言でさも嫌そうに身体を反らすか、するはずなのだ。
これはもう、明らかにおかしい。
そう思った俊輔は、懐から取り出した携帯電話で、道明寺を呼び出した。
「何かがおかしい、とにかくおかしい、って言われても、さっぱり意味が分からないじゃないか。何なんだ、一体」
呼び出されてやって来た道明寺医院の医師・道明寺はマンションにやってくるなり、言った。
「とにかく診てくれ」
と、俊輔は強引に道明寺をリビングに引きずり込み、稜を診察させる。
請われるままに道明寺は稜の身体を丁寧に診察し、いくつかの簡単な質問(調子はどうだ、体調に関して、気になる点はないか、等々)をしてから立ち上がる。
そしてその場に稜を残して別室に俊輔だけを呼び、
「至って健康そのものじゃないか。一体全体、何がおかしいって言うんだ」
と、苦虫を噛みつぶしたような口調で言った。
「いや、おかしいだろ、あれ」
と、俊輔は稜がいる部屋に続く扉を指して言う。
「・・・だから、どこが?」
「口答えも、反抗も、一切しない。突然人が変わったみたいに大人しくなった」
「はあぁ?そんなことで俺を呼び出したのか?こんな営業時間外に?」
「そんなことってなんだ!」、と俊輔は喚く。
「そんなことだろ、どう考えても」、と道明寺はうんざりと首を横に振る。
「お前だって稜の性格は知ってる筈だ、それがあんな大人しいんだぞ!絶対変だろう・・・!」
「おい若頭さん、ちょっと落ち着け」
がなり立てる俊輔を手を挙げて黙らせ、道明寺はゆっくりと口を開く。
「いいか、突然凶暴になったとか、暴力的になったとか、そういうことなら治療の必要もあるかもしれない。
しかし身体の不調も一切なく、ただ大人しくなったことのどこがいけない?何の支障がある?」
改めてそう問われると、俊輔に反論の余地はなかった。
だがすんなりと納得出来るものでもなく、俊輔は更に食い下がる。
「しかし本当に、一昨日まではいつもどおりだったんだ」
「・・・だから?もうあんたに反抗しても仕方がないと、志筑さんも腹をくくったんじゃないのか。
それだけの圧倒的な権力が自分にあって、それをあの人に見せつけている自覚くらいはあるよな」
これが望みだったんじゃないのか?という思いを言下に忍ばせて、道明寺は言った・・・。