:: 風花の記憶 4 ::
喫茶店を出た後、辻村さんは最寄りの駅まであたしを送ってくれた。
ゆっくりとした足取りで駅へと向かう道の途中、あたしはもう、リョウくんについての話はしなかった。
話せば話すだけ想いが募って辛かったし、会えないのであればいくら話を聞いても虚しいだけだ。
でもそれでも、駅へと繋がる路地の角で足を止めた辻村さんに、
「悪いが、送れるのはここまでだ」
と言われて、最後にあたしはどうしても、確認せずにはいられなくなる。
話をすればするほど、リョウくんのことを聞けば聞くほど、不安に感じていたこと。
リョウくんは果たして元気で ―― 生きているのか。
リョウくんがあたしと会えないというのは、どんなに願ってももうおかあさんと会えない理由と、同じなのではないのか。
だって普通に考えたら、お父さんのことを怒っているんじゃないのなら、あたしに会えないなんておかしいじゃないの、・・・ ――――
ふと心をよぎったその予感に囚われて、あたしはさっきから、不安でどうしようもなくなっていたのだ。
あたしがその恐ろしい不安を小さく口にしたのと同時に、辺りに強い風が吹き渡った。
冷たい冷たいその風には、細かい白いものが混じっていた。
乾いて凍えた風に舞う、小さな氷の花。
実家のある郡山ではよく見たけれど、東京でも見られるんだわ、とあたしは吹き付ける風と同じくらいに冷えた思考の片隅で考えていた。
「もちろん ―― もちろんだ」
風花の混じった強い風に一瞬目を眇めた辻村さんが、怒りにも似た、きっぱりとした口調で言った。
「リョウは生きているよ、むろん ―― 生きて、そして ―― 君の幸せを、祈っている」
それを聞いて、ほっとして、あたしは笑う。
辻村さんが好きだったというおかあさんの笑いかたと、少しでもたくさんの部分が似ている笑い方を出来ていますようにと、祈りながら。
「・・・今日はお忙しいのに時間を取って下さって、ありがとうございました」
と、あたしはお礼を言った。
「いや」
と、辻村さんは小さく首を横に振った。
「じゃあ ―― もう、行きますね」
と、あたしは言う。
「ああ。・・・、元気で」
と、辻村さんは言う。
とても名残惜しかったけれどキリがないので、あたしは思い切ってさっと踵を返し、駅へと向かう。
ついうっかり駆け戻ってしまいそうだったので、後ろを振り返るのはやめようと思っていた。
でもやっぱり我慢できず、途中、あたしは振り返ってしまう。
辻村さんは別れた地点に立ったまま、そんなあたしに向かって右手を上げた。
何となくホッとして ―― この2時間のことは、現実的な出来事のように思えなかったので ―― あたしも小さく彼に手を振って、再び駅へと向かった。
けれど駅へ続く街角、最後に振り返ってみた時にはもう、辻村さんの姿はどこにもなかった。
その後あたしは辻村さんとした約束どおり、リョウくんを探すことをやめた。
何ヶ月もリョウくんを探して回ったこと、その果てに辻村さんと会ったこと、そういうことをあたしは、誰にも一言も言わなかった。
そうした方がいいような、そんな気がしたのだ。
でもあたしはそれからも、大学を卒業したり、就職したり ―― 事あるごとに、気を変えたリョウくんが連絡をくれはしないかと、当てもなく待つことはやめられなかった。
しかし結局リョウくんから連絡はなく、全てが辻村さんの言ったとおりになった。
けれどそれから数年後、あたしは思いもかけない成り行きによって、リョウくんについての話を耳にすることになる。
あの日からちょうど5年がたった頃、あたしは婚約をした。
その相手が、警視庁に所属する警官だったのだ。
彼の家はいわゆる警察官僚(彼曰く、世に言う“エリート官僚”までは行かない、代々その下の下辺りで、うろうろしていた感じなんだ。という事だったが)の家だった。
その関係であたしは、リョウくんに纏わる実に驚くべき ―― 驚くだけではない、辛すぎて、苦しすぎて、聞くだけでその場にぺったり座り込んでわんわん泣き出したくなるような真実を知ることになった。
むろん彼の家は彼とあたしの結婚に大反対で、父は憤り、母はただただ困惑していた。
あたしも一時は、これはもう彼との結婚は ―― 彼とだけじゃない、今後誰とも結婚は考えない方がいいだろうとすら思った。
でも例えそうなっても、あたしはきっと、ずっと、父のようにリョウくんに対して憤る気にはなれなかっただろう。
あの時、リョウくんがどうしてあたしと会おうとしなかったのか。
あの喫茶店で辻村さんが、どうしてあんな風にあたしに謝ったのか。
その理由をこの一件の中で知ったあたしは、あの時彼らが何を守ろうとしたのかを理解した。
リョウくんは自分の気持ちを押し殺し、出来る限りの、ギリギリいっぱいの努力をしてくれたのだ。
それを越えるものごとが起きてしまったことは、彼らのせいではなく ―― 誰のせいでもない。
しかし知る限りのことを打ち明けた上で、結婚はしないと言ったあたしに彼は、
君が俺と結婚をしなかったことを知ったら、君の言う“リョウくん”は誰よりも自分を責めるだろう。
彼を大切に想う気持ちが本当なら、これ以上彼を苦しめたくないと願うのなら、君は何が何でも俺と結婚しなくちゃならない。
と言い、あたしとの結婚に反対する人々を根気よく説得し続けた。
色々なことがあり、様々な問題が起き ―― その中で彼には本当に大変な思いをさせてしまったけれど、それから1年ほどの後、あたしたちは結婚した。
結婚した後も色々あったけれど、彼は何が起きても、何を言われても、いつでも凛とした態度であたしを守り続けてくれた。
そんな彼を見ていて、あたしは辻村さんが言っていた言葉を、たびたび思い出すことになった。
幸せというものは、そこらに転がっているものではなく、血を吐くように、泥にまみれるようにしながらでないと、守れないものだ ―― そう、本当にその通りなのだ。
そして、そういう風に他人を守ろうと努力する人に、人生で何度も会えたあたしは、最高に幸せな人間なのだろうとも、思う。
今でも時々、彼からリョウくんの話を聞く。
その世界では目立った動きを一切せず、組織の奥底で文字通り十重二十重に守られるようにして存在しているというリョウくんの情報は、ほとんど出てこないに等しいので、どれも大した話ではない。
辛うじて生死が分かるというレヴェルの、曖昧模糊とした情報ばかりだ。
でももちろん ―― 言うまでもないことだけれど ―― なんの情報もないよりは、ずっといい。
彼はそんな情報をあたしに話し、そしてその最後に毎回必ず、
「連絡、くれればいいのにな ―― 俺も、会ってみたいよ」
と、言う。
「そうねぇ・・・でも今は前よりもっと、連絡をし辛いんじゃないかしら」
「そうかな。でも俺も警察をやめたわけだし、お互い心配したり気を遣わなきゃならないことは、何もないじゃないか」
「建前としてはそうなのかもしれないけど・・・多分きっと、一度決心したら頑固なのよ、リョウくんは」
あたしが言うと彼は、
「そうなんだろうな、きっと ―― 君と同じでね」
と、からかうように言って、笑う。
数々の悲惨な経験をしたというリョウくんが今、自分の現状をどう思っているのか。
後悔に苛まれることはないのか ―― 幸せだと思うこともあるのか。
それはあたしには、分からない。想像も出来ない。
例えリョウくんと会って話が出来たとしても、きっと分からないだろう。
でもただひとつ確かなこと、それはリョウくんがあたしの幸せを祈っていてくれるのと同じだけ、あたしもまた、リョウくんが心穏やかでありますようにと、祈り続けるだろうということだ。
リョウくんがかつて経験したという、辛い過去の記憶に囚われて苦しむ回数が、1度でも少なくありますように。
過去の記憶から逃れられずその場に沈み込みかけた時、あたしが夫に守られているのと同様に、辻村さんが全力でリョウくんの全てを守り、癒す努力をしてくれていますように。
例え一生リョウくんに会えなくとも、あたしは祈り続けるだろう。
静かに、密やかに、けれどとても強く ―― 生きている限り、きっと、ずっと、永遠に。
―――― NIGHT TRIPPER番外編 月と風花 END.