:: 風花の記憶 3 ::
「まともに会ったこともない人のことで、親をそんな風に言うなんてって、思うのかもしれないですけど」
と、あたしは涙を振り払って言った。
「でも、直感で分かるんです ―― 忘れちゃいけない人だったって。あたしにとって大切な人になるはずだったって。それなのに ―― 」
「そういうことを言っているんじゃない」
と、辻村さんは厳しい目であたしを見据えて言った。
「君は肉親を憎んで生きるという生き方がどういうものだか、本当に分かっているのか」
「・・・、それは・・・ ―― 」
「肉親を憎み尽くして取り返しが付かなくなった人間を、俺は知っている」
低い、低い声で辻村さんが言い、あたしはものが言えずに黙って辻村さんを見ていた。
辻村さんは重くなった空気を区切るように小さく咳払いをして、続ける。
「そういう恨みはある一線を越えると、取り返しがつかなくなる ―― 関係者が全て死に絶えた後になっても、恨みだけが残るんだ。
君はまだよく分からないかもしれないが、幸せというものはそこらに石ころのように転がっていて、誰でも簡単に手に入れられるものじゃない。それは血を吐くようにして、泥にまみれるようにして、必死で守らないと守りきれないものだ。
確かに君のお父さんがしたことは、許せないことかもしれない。実際に俺が君の立場に立ったら、君と同じように思うかもしれない。
だがな、それが全て君の、引いては家族の幸せためだったのもまた事実なんだろう ―― 彼は彼なりに、彼の目に見える範囲の幸せを守ろうとした。その詳細や想いを知らずに、一方的な感情でそれを批判するのは、フェアじゃない」
辻村さんは言い、ゆっくりとテーブルの上に置いた手を引いた。
「それに ―― これだけははっきりと言えるが、君が父親を憎んで生きてゆくような、そんな生き方をすることを祥子さんは・・・君のお母さんは、絶対に望まないだろう」
「・・・お ―― お母さんを・・・知っているんですか・・・?」
驚いて、あたしは訊いた。
「・・・ああ、知っている」
頷いて、辻村さんは答えた。
「どんな ―― 人でした・・・?」、とあたしは訊く。
「お父さんから、訊いていない?」、と辻村さんは訊き返す。
「今の母がいるので・・・詳しいことは訊き辛かったし、父も答え辛いみたいで・・・」
「そうか ―― そうだな、そう・・・綺麗な人だったよ」
と、辻村さんは砂漠の果てに浮かぶオアシスの蜃気楼を見るような目つきになって、言った。
「姿形の話だけじゃなく・・・見た目も綺麗な人だったが、それよりも ―― 優しくて、面倒見がよくて、人のことをきちんと見て、本質を瞬時に判断して、その人に合った心配りが出来る・・・そんな、人だった」
そこで辻村さんは遠くを見るようにしていた視線をあたしに移し、そのまま小さく微笑む。
「君は、お母さんに似ている」
「 ―― そうですか?普段はあたし、父に似ているって言われているんですけれど・・・」
「うん、まぁ、俺は君の父親という人に会ったことはないから、似ている程度や割合は分からないが ―― 君の笑い方なんかは、祥子さんにそっくりだ」
「・・・笑い方?」
「ああ。笑うときの唇の動きが、よく似ている。
実を言うと俺は彼女の笑い方が、とても好きでね。あの笑いを見たいが為に、馬鹿なことをして見せたりしたものだ」
「・・・辻村さんが、ですか?」
「そう、意外かもしれないが、俺にも人並みに、若い頃はあった」
それを聞いてあたしは思わず笑い ―― でもやがてその笑いは、どうにも堪えきれない嗚咽に変わる。
もう、止められなかった。
「リョウくんに、会わせて下さい・・・ほんの少しでいいんです。お願い・・・」
あたしが言うのを聞いた辻村さんは眉間に深い皺を刻んだまま、すっと視線を伏せ、すまない、と小さな声で謝った。
なぜそんな風に辻村さんが謝るのか ―― 分からなかったけれど、辻村さんの声はまるで、今にも泣きだしそうに聞こえた。
いや、恐らくこの人は、泣いているのだと思った。
辻村さんがこれまでどういう生き方をしてきたのか、あたしは知らない。
けれどこの人は何か辛かったり、苦しかったりする度、きっとこうして、涙も声も出さずに泣いて生きてきたのだろうという気がした。
むろん人は誰しも、大なり小なり、そういう部分はあるとは思う。
けれど、この辻村さんという人のそれは、世の中によくある、というものとはそれぞれが少しずつ、方向性が違う気がした。
目を伏せた辻村さんには何というのか ―― そう、人の保護欲を暴力的なまでにそそりたてるようなものが、確かにあった。
がむしゃらに引き寄せて、強く抱きしめて(もちろんそんなことを実際に出来るとは思わないけれど)、もういい、それ以上自分を責めなくていい、もうなにも言わないから、と言って必死に慰めてしまいたくなるような、そんな部分が。
あたしは小さく、深く、ため息をつく。
もう何も言うまいと思った。
辻村さんが“幸せというものは簡単に手に入るものではなく、血を流し、泥にまみれながら守らなければならないものだ”という言葉にきっと、全てが集約されているのだ。
あたしが選択したことでないにせよ、壊れたものは、一度切れてしまったものは、二度と再び、元通りにはならないのだ。
今後自分の手で同じ過ちを犯さないように、大切なものを大切に思う分だけ全力で守ってゆく ―― そんな風に生きてゆかなければ、とあたしは強く心に誓った。
そうすることが、何らかの理由であたしに会おうとしないリョウくんの想いに応えることなのだ、と。
あたしがそう決心した瞬間、それを見透かすかのように、店のどこかで電話が鳴った。
遠くで店主が誰かと何かを、小声で話しているのが聞こえた。
それから数分後、黙っていた辻村さんが顔を上げる。
そこにはもう、涙の気配は跡形もなかった。
「 ―― 悪いが、時間だ」
と、辻村さんは言った。
ちらりと時計の針を確認すると、それは約束の1時間という期限を、1時間ばかり過ぎた時刻を指し示していた。