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「 ―― あれ、菖蒲さんは?」
ガラス戸を開けた俊輔を見て少し驚いた表情をした稜が、部屋を見回して、訊く。
「この浮気者が」
稜の質問には答えずに、俊輔が言った。
「・・・浮気って、なんだよそれ」
庭から部屋にあがった稜は、きょとんとして訊いた。
「女と泊まりがけで旅行に行くなんて、どこからどうみても浮気だろうが」
本気とも冗談ともつかない俊輔のその言葉に、稜は笑う。
「何を言い出すかと思えば ―― 菖蒲さんが俺とどうにかなるなんて、天地がひっくり返ったとしてもある訳がない」
「そんなの、分からないだろう」
「ちょっと考えれば一目瞭然だろう、当たり前じゃないか」
苦笑を漏らしつつ首を横に振って、稜は言い ―― それから心配そうな表情で、俊輔を見上げる。
「それよりもあの日、俺についていた人たちはどうなった?何かされたりとかは?」
「今回のことは、厳重注意だけで終りだ ―― 菖蒲からもそう言ってきたしな」
「・・・そうか。それなら良かった」
ほっと息をついて、稜は言った。
「・・・後でそんな心配するなら、二度とこんなことはするなよ、いいな」
がみがみとした言い方で俊輔は言い、稜の腕を掴む。
そのまま引き寄せられようとするのに抵抗しつつ、稜は無言で視線を逸らし、答えようとしなかった。
そんなことではないかと察してはいたが、菖蒲が色々と言っているのだろう ―― そう考えた俊輔はため息を噛み殺し、抵抗する稜を強引に抱き寄せる。
「・・・やめろって、菖蒲さんが戻ってきたら、・・・ ―――― 」
囁くような小さな声で、稜が言う。
「あの女なら、もう帰った」
稜を閉じこめた腕の力を緩めずに、俊輔が言う。
「2日も人を放っておいたんだ、キスくらいさせても罰はあたらないだろう」
「・・・、いや、それは ―― でも、店の人とか、来るかもしれないし、・・・」
「料亭の個室に、予告なしに従業員が入って来るもんか」
そう言い放った俊輔が、これ以上の問答は不要とばかりに稜の後頭部を捉えて引き寄せ、一気にその唇をふさいだ。
荒々しい口づけの合間、稜の髪の間に差し込まれた俊輔の手指が、その髪を根本から掴んでは離すような動作を繰り返す。
髪の一本一本すらをも追い求めるような、それは激しい所作だった。
そんな俊輔の飢えきったような口付けを受けた稜の、一瞬抵抗するように俊輔のスーツを掴んだ手から、瞬く間に力が抜けて行く。
その手がやがて、スーツの上から俊輔の胸をたどるようにゆるゆるとあげられ、首に回される。
首に回された稜の腕に力が込められたのと同時に、2人を包む熱が、加速度的に上がってゆく。
どちらがどれだけ相手を求めているのかを競うように続いていった口付けはしかし、部屋の外に人の気配が生じたのに気付いた稜によって、唐突に終りを告げた。
食事を持ってきてもいいか、と尋ねた店の女将に頷いて答える稜を見て、俊輔は内心苦笑せずにはいられない。
俊輔の腕から抜け出してゆっくりとした足取りで席に戻った稜には、数瞬前まで繰り広げられていた荒々しい熱情の気配は、微塵もなかった。
その切り替えの早さは見事と言えなくもないが、多少の虚しさを感じるよな ―― と、思いつつ庭へ視線を転じた俊輔に、
「そっちの奥にある池に錦鯉がいて、さっきはそれを見に行っていたんだ」
と、稜が言った。
「錦鯉?」
首を回して稜を見て、俊輔が訊く。
「そう ―― 3千2百万の値段が付いたっていう、鯉がいてさ」
「3千2百万だって?一匹でか?」
「うん、そう」
「・・・それはあの、馬鹿馬鹿しいバブルの時代の話か?あの頃は誰もがみんな、何でもいいからとばかりに金を使いたがったからな」
「いや、6年前の品評会での話だと言っていたから、バブル以後の話だよ」
「・・・ふぅん、・・・下らないとしか思えないな。死んだらそれで終りなのに」
肩をすくめて、俊輔は言った。
「そう、俺も最初はそう思ったんだけどさ、錦鯉って寿命が7、80年で、ほぼ人間と同じくらいらしい。
品評会では柄がどれだけ均等に、綺麗に入っているかとか、柄の境目がはっきりとしていてぼやけていないとか ―― あと、泳ぐ姿がいかに美しいかとか、そういう細々としたチェックポイントが色々あるんだって、知ってたか?」
テーブルに右の肘をつきながら、稜は言った。
「・・・お前、いつからそんなに、錦鯉に興味を持つようになったんだよ」
「ん?ああ、だからさっき池にその鯉を見に行ったとき、ちょうど鯉の管理をしている人が来ていて、色々説明してくれたんだ。
ああいう専門家の話って面白いよな、聞いてて飽きない ―― とは言えあれが高い鯉だって説明されて、その時はそうかなと思っても、目を離した次の瞬間にはどれがどれだか分からなかった。菖蒲さんもそう言ってたけど」
つまりそれが稜を引き留める要員だった訳だな、と単純に楽しげに話続ける稜を見ながら、俊輔は納得する。
何らかのやり方で、話が終わったのをその男に伝えて、稜を部屋に帰らせたのだろう ―― 全く、つくづくと、食えない女だ。
そう考えながら、席に戻ろうとした俊輔だった。
が、ふと去り際の菖蒲の謎めいた言葉を思い出し、稜の話に相槌をうちつつ、続きの間に足を向ける。
そして何の構えもなくふすまを開け ―― そこに広がる光景を目にした俊輔は、呻き声を上げずにはいられなかった。
今いる部屋と同様、紅葉の赤に染まった部屋の中央に、紅葉を凝縮して染め上げたような深紅の布団が一組、敷かれていたのだ。
「・・・あんのクソ女、何を考えてんだ、時代劇かよ・・・!!」
呻いたのに続いて、俊輔は思わず呟く。
その乱暴めいた呟きを聞いて、稜が訝しげに俊輔を見る。
「 ―― 何だって?」
「何でもない」
ぴしゃりと音を立ててふすまを閉じて俊輔は早口で答え、脱いでいたスーツの上着を取り上げる。
そして言う、「おい、稜。帰るぞ」
「はぁ?」、顎を支えていた手を外して稜は言う、「何を言ってるんだよ、食事を運び始めるって言ってたの、聞いただろう」
「そんなの放っておいていい。ほら、早く来い」
驚く稜には構わず、部屋の出入り口のふすまを引き開けた俊輔は稜が嫌う、例の命令口調で言った。
こんなところに稜と2人きりで1時間も一緒にいれば、後で菖蒲が何を言いふらして歩くか、分かったものじゃない ――――
俊輔からしたらそれは切実とも言える恐れだったのだが、事情を何も知らない稜はむろん、俊輔の唐突すぎる意味不明な行動に、うんざりとため息をつく。
「ったく、お前が来るとすぐこれだ ―― 食事くらいして行っても、いいじゃないか」
「この2日間好きにさせてやったんだ、これからは俺の言うとおりにしろ」
「なんだよその言い方・・・、せっかく菖蒲さんが連れて来てくれたんだから、食べるだけ食べていけばいいだろ」
「つべこべ言うな、いいから早く来い」
「そんなの、店の人にも失礼じゃないか・・・それにここの鴨料理は絶品だって菖蒲さんが言ってたから、食べてみたい。この2日間、菖蒲さんお勧めの店で出された料理はどれもこれも、本当に美味しかったんだ。
それに元々俺、鴨は凄く好きなんだよな。でもほら、鴨って滅多に食べる機会がないじゃないか、だから・・・」
「ああもう、うるさい!」
痺れをきらして、俊輔は半ば怒鳴るように言った。
「そんなに鴨が好きならな、明日にでもお前の為に鴨舎を一舎買ってやる。そこで鴨でもなんでも、好きなだけ飼って育てて、絞めて食え!」
「・・・飼って育てて絞めてって、・・・お前な ―――― 」
「早く来い」
呆れた、という風に言った稜に、俊輔が決めつけるように言った。
これ以上はもう、何を言っても通用しないと悟った稜は深いため息をついてから、立ち上がる。
「・・・一瞬でも来てくれて嬉しいとか思った自分が、馬鹿みたいだ」
部屋を後にしながら、恨めしげに、稜が呟く。
「 ―― 何だと?」
懐から取り出した携帯電話で車を店の前に回すようにと部下に命じた俊輔が、じろりと稜を見て訊いた。
その視線と口調に負けずとも劣らない、冷めた視線で俊輔を見た稜は、
「 ―― 何でもない」
と、言ってその場に俊輔を残し、さっさと自分だけ店から出て行ってしまう。
そして稜は東京に着くまで俊輔が何を言っても、頷いたり首を振ったりして意志を示す以上の反応を示すことはなかったのだった・・・ ―――― 。
“志筑さんの協力があれば、もっとスムーズなやり方が考えられる”との言葉通り、それ以降菖蒲は、
熱海の梅が見ごろだから。とか、
吉野の桜が見ごろだから。とか、
どこそこのお祭りは見ものだから。とか、
厚岸の牡蠣がちょうど今、旬だから。とか、
実に様々な理由をつけて稜を誘い出しては、小旅行を繰り返すようになる。
それは日帰りのこともあったが大抵は1泊から2泊をする計画で、俊輔がいくら気を付けて稜の行動をチェックしていても止められなかった。
それだけでも俊輔にとっては噴飯ものだというのに、そのうち稜は俊輔と出掛けた際、
“あの服、菖蒲さんに似合いそうじゃないか?”
などと口走るようになる。
しかも着るものの好みが徹底しており、初代駿河会会長である駿河俊太郎がプレゼントした洋服すら、趣味と違うと頑として着ようとせず、関係者を青ざめさせたという逸話を持つ菖蒲が、稜の選んだ服だけは喜んで身に着けるようになり―― 基本的にあまり嫉妬の感情を見せることのない俊輔が、それにだけは文句を言っていた。
しかしそれに対して稜は、
“男の服を選んでも面白くも何ともないしな”
と、そっけなく言い放ち、さらに俊輔を腐らせたという・・・・・・。
―――― NIGHT TRIPPER番外編 Modern Love END.