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「あいにくと俺の方には、あんたと話すことなどなにもない」
厳しい目で菖蒲を見据えながら、俊輔が言った。
「だがひとつだけ警告はしておく ―― 人のものに手を出すのはやめろ。不愉快だ」
「あら、面白いことをおっしゃるのね ―― 志筑さんは、俊輔さまの“もの”なんですか?」
さも驚いたというような顔をして、菖蒲が言った。
「果たして志筑さんは、それを了となさるかしら」
むろん稜が素直にそれを受け入れるはずがないことは、俊輔も分かっていた。
そして菖蒲がそれらを全て推し量った上で聞いていることも同時に、俊輔は知っていた。
「 ―― どうぞ、お座りになってください」
むっとした表情で黙り込んでしまった俊輔に、菖蒲が言った。
「・・・まず先に、稜をここに連れ戻せ。あいつを一人にしておくと、ろくなことにならない」
と、俊輔がため息混じりに言った。
「この店内には私たちしかおりませんし、周りは私の手のものに警備させています。
加えて今は俊輔さまの手のものも周りにいらっしゃる ―― 猫の子どころか、小虫一匹、出入り出来るものではありませんよ」
席へと戻りながらの菖蒲の口調はまるで、出来の悪い小学生に初歩の算数を教える気の長い教師のもののようだった。
何か言い返してやろうかどうしようかと、俊輔はしばし悩んだが ―― 面倒くさくなり、肩をすくめてみせただけで菖蒲の前に腰を下ろす。
「 ―― 何の話だ」、と俊輔が訊いた。
「志筑さんのことです」、と菖蒲が答えた。
「稜のことに関しては、あんたにも誰にも、とやかくは言わせない」
高圧的な言い方と態度で、俊輔が言った。
対する菖蒲は涼しげな表情を崩さず、ただすっと両目を細める。
「他の方のことは存じませんが、少なくともこの私は言いたいことは言わせて頂きます ―― 俊輔さま、あなたは今後の志筑さんの人生について、どういうお考えでいらっしゃるのですか」
「・・・どうやら俺の話をまるで聞いていなかったようだな。何をどう言われようと、俺はもう」
「そうではありません」
きっぱりと俊輔の言葉を遮って、菖蒲が言う。
「今更別れろ切れろなどと、この私が言うとお思いですか。そういう意味ではないのです ―― いいですか俊輔さま、もしあなたが今日ここに来られないと知ったら、私は午後早いうちに志筑さんを東京に・・・あなたの元に、戻すつもりでおりました」
それを聞いた俊輔は、口だけなら何とでも言えるからな。とでも言わんばかりに唇を歪めたが、菖蒲はにこりともせずに、続ける。
「だって志筑さん、まともにお休みにならないんですもの ―― これ以上はお身体に障ります」
その言葉を聞いた俊輔がそこで初めて、まっすぐに菖蒲を見た。
「昨日は少し、お休みになられたようですが・・・一昨日は眠られていなかったと思います。
道明寺から大体元通りになったようだと聞いて、どんなものかと思っていたのですが ―― 案の定、というところでしたね」
と、菖蒲は言ってため息をつき、視線を伏せる。
「医者という観点から、道明寺は側にいて寝食を管理しろとおっしゃったのでしょうが ―― 私は医者ではありませんので、医者とは違う部分が心配になるのです。
必要以上に大切に、手の内で守ろうとなさるのも、あんなことがあったからには仕方のないことかもしれません。しかしあなたが側にいないと眠ることもろくにしない、出来ない ―― 志筑さんをそんな風にしてしまって、本当にいいのですか?
こんなことを言いたくはありませんが、あなたが志筑さんよりも1日でも長く生きていられるという保証があるのなら、それもいいでしょう。しかし一般人であってもそんな確証はありませんし、ましてやあなたは普通の人よりももっと、ずっと、危険な立場に身をおいていらっしゃる。
もしあなたに万一のことがあったら、あの方はどうなるのですか?そういうことを、きちんとお考えになっておられますか?」
俊輔は答えず、菖蒲はそこで顔を上げ、再びじっと俊輔を見つめた。
「何も突き放せなどと、そういうことを言っているのではありません。しかし愛情と依存を一緒くたにするようなやり方は危険です ―― 今の志筑さんには、特に」
そこまでを言って、菖蒲は口を閉ざした。
俊輔は菖蒲との間にある空間のどこか一点を睨むようにして、言葉を発さない。
風が吹き過ぎ、部屋中を染める赤い影が揺れる。
遠くで聞いたことのない音階で、鳥が鳴いているのが聞こえた。
「つまりあんたは」
長い沈黙を破って、俊輔が言った。
「そういうことを試して確かめるために、今回のことを計画したのか?」
「 ―― そうですね、それもありますが・・・それはあくまでも建前です」
しれっとした口調で、菖蒲は言った。
「志筑さんのことについて、面倒なことを考えるのは俊輔さま、あなたの役割でしょう。私は単純に、志筑さんと遊んでみたかっただけです」
それを聞いた俊輔は幾分柔和なものにしかけていた表情を ―― 最初に部屋に入ってきた時よりは、というレヴェルではあるが ―― 再び歪めた。
が、それを全く気にしていない素振りで、菖蒲は続ける。
「この2日で私たち、随分仲良くなったんですよ ―― 志筑さんって、本当に素敵な方。
ああそういえば初日、着物を買いに志筑さんと呉服店に行ったのですが、そこの店主が志筑さんのセンスに感心していました。つきあいが長い店なのですが、私ですら着物のいろははまだ分かっていないと度々言われていますのに・・・やはり出来る方は何においても、秀でていらっしゃるものなのですね」
そう言っていかにも意味深長な視線を送ってくる菖蒲から、俊輔はうんざりしたように目を逸らす。
菖蒲は再びそんな俊輔に微笑みかけてから、立ち上がる。
「それでは、私はこれで」
「 ―― 私はこれでって、食事は?」
「お食事は、俊輔さまと志筑さんの分を注文しておきました。そろそろ準備が整った頃合いですので、あとはお二人でごゆっくりどうぞ」
答えながら部屋の戸口に向かう菖蒲の後ろ姿を見送って、俊輔はここへ来て何度目になるのか分からないため息をつく。
つまり俊輔が到着する時間も、こうして話をする時間も、全て計算の上なのだ。
この女のこういう察しのよい、用意周到な部分は手間が省けて有り難いと思う反面、手の上でいいように転がされているような気分にもなる、と俊輔はつくづく思う。
そんな俊輔の苦々しい思いの籠もった視線を背中に受けながら、菖蒲は部屋のふすまを少し開けたところで振り返る。
「ああそうそう、忘れるところでした。
あちらの ―― と、言って菖蒲は俊輔の右手のふすまを指した ―― 続く間に、お詫びの品を用意しておきました。後ほど、ご確認を」
「詫びの品?」、と俊輔は顔をしかめる、「何だ、一体?」
「後ほど、ご確認を」、と菖蒲はきっぱりと繰り返す、「それでは、失礼いたします」
そのまま菖蒲は軽く身体をくねらせるようにして、薄くあけたふすまの間から出て行ってしまう。
残された俊輔は首をひねり、立ち上がって菖蒲の指した続きの間に向かおうとしたのだが ―― 立ち上がったところでガラス戸の向こうに稜の姿が見えたので方向を転じ、菖蒲が閉めたガラス戸を開けた。